丹波篠山鳳鳴の塾で音頭鍛えし美少年
歌いましょかい ふるさとを [デカンショ節]
■ デカンショは世につれ 人につれ
篠山といえばデカンショ、デカンショといえば篠山というくらいに有名です。そのデカンショ節も全国流行から100年を迎えました。
参照
デカンショ節の由来のページ
望郷の念が 歌いましょかい ふるさとを
デカンショ節の起こりは、廃藩置県後、東京に出た旧藩主青山忠誠(ただしげ)の子忠允(ただこと)や上京した篠山出身者が、篠山の盆踊り歌「みつ節」(デコンショ)にふるさとを想う歌詞をつけて唄ったことにあります。
♪デコンショデコンショと皆さんと共に コラコラ
歌いましょかい ふるさとを ヨホイヨホイ
♪空を凌げる旧城の松に
思い起こせよふるさとを
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当時の青山家の寄宿舎 |
など郷愁の念が強く現れています。
さらに
♪丹波篠山鳳鳴の塾に
文武鍛える美少年
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1998年の寮歌祭の風景
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といった今も歌われる名文句から
青山忠允と学友 |
♪山の深山の山家のせがれ
質素武勇が本色じゃ
♪丹波荒熊 男の肝に
爺これ見よ 毛が生えた
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など豪快な歌詞が多かったのでした。
旧制一高生との出会い
1898年館山・江戸屋旅館での旧制一高生との偶然の出会いを生んだのもこの豪快な歌詞のためであったでしょう。
一高生は寮生活に持ち帰り、ストームとデカンショ節が寮生活になくてはならないものとしました。そしてわずか1,2年のうちに全国に大流行となりました。
このころ、
夏目漱石が「我が輩は猫である」に「いずれも一騎当千の猛将と見えて、丹波の国は篠山から昨日到着し立てでござるといわれぬばかりに黒く逞しく筋肉が発達している」と書いているのもこの歌詞のためではないでしょうか。
一高で歌われていた歌詞としては
♪デカンショデカンショで半年暮らす
あとの半年寝て暮らす
♪丹波篠山鳳鳴の塾で
文武鍛えし 美少年
♪丹波篠山山家の猿が
花のお江戸で芝居する
といった今もポピュラーなものから
♪デカンショデカンショが赤門の前で
おでん 燗酒 いなりずし
♪ほんに一高は不思議なところ
星のある夜に雨が降る
♪ほんに独逸語は夫婦の喧嘩
「ダス」の「デル」のと大騒ぎ
♪一部あたまを叩いてみれば
権利権利の音がする
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など当時の寮歌としての雰囲気を十分に伝わっています。
東京から篠山へお里帰り
地元篠山に逆輸入されたデカンショ節は公募され
デカンショ風景 |
♪北と南に分かれて落ちる
鼓峠のさかれ水
♪さかさ釣して あの光秀の
母を殺したやぐら松
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など篠山地方の地域性を色濃く出した歌が作られています。
大正末期の頃までに現在のデカンショ節のほとんどがつくられています。
1930年〜終戦のころまでに作られた歌は記録として残っていません。
平和な時代の到来とともに
戦後、1956年国体参加を機に観光協会や商工会が募集して次々と新作が発表されています。
♪丹波篠山 お城の濠に
うつす平和の 月の影
♪テレビラジオに デカンショのせて
世界平和の 音頭とる
♪みなと神戸の 秋空高く
デカンショ踊りの天下晴れ
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1970年万博でのデカンショ |
とようやくつかんだ平和な時代を謳歌しようとする時代背景が伝わってきます。
デカンショは歴史的な書籍に記載されているだけでも数え切れないほどあり、また「先生先生と威張るな 先生」など今でも学生の中で歌われる替え歌などもいれると数百もあると思われます。
それぞれの歌に歴史と人々の思いが詰まっていることでしょう。