兵庫県篠山市ホームページ 超お役所サイト丹波篠山へのいざない
 
 ホーム > 地域情報データベース > デカンショ大辞典 > デカンショ節に関する一考察(2)

圓増浩之著

デカンショ節に関する一考察

現存する2つのデカンショ節について (2)

デカンショ娘 篠山市内においてデカンショ節の保存と振興に長く携わってこられた圓増浩之さんが地元には曲調の異なる2つのデカンショ節が存在することに注目し、様々な資料を掘り起こしながら今広くうたわれるデカンショ節が生まれた歴史的経緯などを考察しています。
 本サイトでは、重要な地域情報であるデカンショ節のデータベースのひとつとして「デカンショ節に関する一考察」を圓増さんの了承を得て掲載します。デカンショ節を歴史的に考察する上でのひとつの問題提起であり、ひとつの意見と考えられます。
 読みやすくするため原文を少し訂正していますがご了承下さい。

前のページへ その2 次のページへ

デカンショ節の歩んだまわり道

昭和初期には篠山であまり唄われなっかたデカンショ節

 はやり歌としての学生歌デカンショ節は大正の半ばには、殆どその姿を消しつつあった。それにしても寿命のながいはやり歌ではあった。
 一方篠山の民謡としてのデカンショ節は、1929(昭和4)年頃から1940(昭和15)年前後生まれの篠山に住む人で小学校、中学校を通じて、不思議なことに学校でも家でも、それ以外のところでも「デカンショ節」を唄った覚えのない人が大半であるのは、どう解釈すればよいのだろうか。大正末期それも篠山で生まれ変わった今の曲調に近いデカンショ節が酒席等で唄われた形跡はたしかに残っているし、そのレコードもあり、ラジオ放送された事実もあるが、一般庶民に好んで盛んに唄われたことはなかった。しかしそれは戦争中であり、その生活環境が影響しているとはいえ、唄った事のない人が多いということの意味を、考えねばならない。もともと盆踊唄だったデコンショ節が、踊りを無視し改作され、ただの俗謡になった。この種の民謡は曲調の良し悪しが命である。唄うことの楽しみさえ無くしたような歌を、好んで唄う人が多くいるはずもない。唄われなくなるのは当然のことで、この件については以後の各項の記述を参考にされたい。
 しかし、である、唄を忘れたカナリヤではないが、踊りを失ったデコンショ節がそれでも篠山の地で静かに生きつづけていたのを否定はできない。

デカンショ節と崎山健之助氏 

 氏は三曲万歳師であり、盆踊の音頭とりでもあった。しかし氏が音頭をとるころにはデコンショ節は踊りとともに、当地方から姿を消していた。かつて崎山氏に聞いたところによれば氏は1925(大正10)年以前から亘理風デカンショ節の改作を試みていたという。そしてレコードに吹き込んでいる。
この崎山氏のレコードはORIENT(京都、大正元年7月から昭和七年まで営業)であり、その間の録音には違いないが、氏が片面の祭文音頭にはじめて「篠山音頭」と名づけ、1925(大正14)年に吹き込んだと話していた。また、次に吹き込んだのはTAIHEIレコード(西宮)で、1924(大正13)年8月から昭和17年までなのでその間には間違いはないが、三味線ほか、地方連中が同じなので大正十五年から昭和の初期と考えて間違いない。またスタンダードレコード(奈良)にも吹き込んでいる。これは昭和七年から十七年までの営業なので、十年前後と考えられる。その節回しは今のデカンショに酷似しているが、三味線伴奏や太鼓の打ち方などは三者三様であり定式化していなかったようである。(昭和20年代TEICHIKU吹き込みの唄の囃子詞は、ヨイショコラからヨイヨイにかわっている)
このころには亘理風デカンショは、後述のラジオ放送と合わせ考えると、篠山地方から完全に姿を消していたのではないだろうか。残念なのは亘理風デカンショ節の譜面がないため曲調がわからないことである。多紀郡でその唄を知っている人が一人もいないという、不思議なことではある。
しかし、かつて亘理氏が館山市で唄ったデコンショ節は、決してバンカラな唄でなく篠山の歌を唄いやすくした素朴なものであったと、語られていたことを私は伝え聞いているし、前川澄夫氏も調べられている。これは私の推測だが、昔のデコンショの、小節をとり、ドレミ音階で抑揚をつけずに唄えば、亘理風デカンショ節になる。後述の前川悦太郎氏の唄に少しはにたものだったと思われる。1937(昭和12)年から1939(14)年にかけて、いまのNHKの大阪放送局に勤務されていた、八上上の故後藤庫太郎氏のお世話で三回デカンショ節を大阪の馬場町から放送した事実がある。私の父、木下楽器店社長の亡父、故小村佳一郎、故尾川婦美他四名であった。生存者は父だけであるがそのことを知っている人も数名おられる。その唄の曲調は今の唄に近かったという。そして崎山氏が1946(昭和21)年8月の盆踊に、自信をもって自分が改作した歌を唄ったのであろう。

篠山地方の盆踊について

 空也上人に始まる踊念仏から一遍上人の念仏踊りを経て、宗教的な行事としての盆踊は江戸初期にはすでにその形式だけは残ったが宗教からはなれ、民衆の娯楽としての盆踊となった。そしてそれぞれの土地で唄われ、親しまれていた歌が、労作唄が、小唄(今でいう小唄ではない)、口説き節、はやり歌などが盆踊の唄になり、色々な変化を経て今日にいたっている。
 この篠山盆地の村落で多少は異なっていただろうが、みつ節踊りが踊られていたといわれる元禄以前には、どのような踊りが踊られていたのかは、現時点ではまったく不明であるが、みつ節もふくめ異なった複数の唄による踊りがあったと、考えてよいのではないだろうか。盆踊は今もそうだが、昔もすぐれた音頭取の唄う歌が(または語りが)、他のそれらを駆逐淘汰し唄い踊られた例は、日本各地でみられる。今は二つほどしか見聞することはできないが、古くは村落ごとに歌も踊りも異なった盆踊があった大阪の中河内地区の例もある。そして、唄(音頭)それが同系統のものであっても、多少の曲調に違がありその囃子言葉や踊りは地区によって異なることが多くみられる。それは前述の複数説を裏付けるものの一つではないだろうか。
 しかしこの篠山盆地は北、東は同じ丹波に接し、南は摂津、西は播州に接している。したがってそれら隣接した地方の盆踊歌の影響を受けるのはごく自然だったと考えられる。たとえば今田の四斗谷みつ節の囃子言葉の「ヨーイヤセーまたはヨーイヤナー」は吉川音頭(播州音頭)で語りの区切り区切りで踊子たちが、はやしていたはやし言葉と同じである(現在はほとんどドッコイセであるが)、日置、福住、村雲方面のみつ節で、はやされていたという「ヤットコセ」は一山越えた、京都丹波の船井郡一帯で唄われていた祭文系で浄瑠璃を取り入れた口説き節だがそのはやし言葉は「ヤットコセ」である。籠坊、原のみつ節のはやし言葉は、お隣の能勢地区の盆踊唄浄瑠璃音頭で一時期はやされていた「ヨイトマカセ」と同じである。

明治末期からの盆踊


 それら隣接の土地の音頭が篠山盆地の各地域に影響を及ぼし始めたのは、幕末か、明治初期だろうと思われる。明治30年代の亘理風デコンショ節の里帰りがそれに拍車をかけ、デコンショ踊りを庶民から奪い取り、まず兵庫口説きである吉川音頭、続いてその祭文音頭が、それぞれ明治40年頃より篠山盆地の盆踊音頭の主役を次々と昭和26年までつとめてきたわけである。
 昭和42年、明治35~387年頃よりこの地方の盆踊から年毎にデコンショ踊りが姿を消していった事情等を調べてみたいと思い、色々な古老にその辺の事情を聞いてまわった。当地方で毎年、一番早く踊りが始まる北村薬師の祭の監物川原での盆踊について、北村の渋谷さん当時85歳過ぎの人で、なぜデコンショが踊られ無くなったのかを聞いたところ、「音頭が何時の間にやら今までの節と違うようになってしもうて、なんや音頭も(歌詞のこと)おもろう(面白く)ないし、踊りとはあわんし、踊りの始めにちょっと踊り、吉川(播州音頭の一つ)をながいこと踊って、音頭取りがとりくたぶれたら(疲れたら)、休んでの間誰かがちょっとの間デコンショを唄い踊たんですわ。連隊ができたころからそればっかり踊とった。」また「音頭取が調子にのってくると、ときたま(時々)みつ節の音頭のあいさに(途中、中に)おもろい文句を(面白い歌詞やはやし)あんこ(中に入れて)にして唄ってたこともあった」と教えてもらった。後の話しは当時なんのことかと気に止めていなかった。このころの囃子言葉はまだデコンショだった。野中の酒井さん、新庄の北村さん達の古老から聞いたことを記憶しているが、理由は同じであった。年代については明治35年ころより明治43年頃までの間であった。それは強引に里帰りさせられたデカンショ節が篠山の盆踊に影響を及ぼし始めた時期と重なる。大正14年と思われる16ミリの無声映画で(五月五日から五月十日の間と思われる)連隊の広場で兵隊が踊っている盆踊が吉川音頭の振りであったことなど、考え合わせるとそれらの話は理解できる。明治40年頃には、唄い祭文(江州音頭と曲調は異なるが同系統の唄い祭文)が唄われだしたが、吉川音頭の良さに押されてか、昭和の初期まで盆踊の音頭の主役にはなれなかった。その後、篠山近辺からなぜか吉川音頭は其の姿を消していった。
 最近明治40年の多紀郡誌編纂材料に書かれた俚謡の盆踊の欄をみて、はっと前述の渋谷さんの話を思い出し、このことだったのではなかろうかと気付いたわけである。どの地区でとられていた音頭かは不明だが祭文音頭系の語りの一区切りのあとのはやし言葉のあとに、みつ節の歌詞十一詞がつづき(七七七五調)、みつ節の歌詞だが「ぼんにゃおどろかヤレコラセねはんにゃねよか のーみなさん うずき八日にゃどしたてこしたて花おろかササヨーイトナ」「きれたきれたはヤレコラセせけんのうわさヨーイトナみずにうきぐさ根はきれぬササヨーイトナ」とつづき(附線の部分が現時点では、断言できないが、多分丁度みつ節踊りが消え去ろうとしていた時期他の音頭との中継ぎに唄われ、音頭取や踊子が当時のはやり歌か何かのはやし言葉を即興的にはやしたのではないかとも考えられる)、再びみつ節の歌詞がつづき、祭文音頭らしい歌詞「一つのこんたんここにまたハードッコイひろいせかいはくにぐにのハードッコイちんだいかからぬとこはないヨイトヨヤマカドッコイショ 二つのこんたんここにまた… …」とつづく。この類の資料の記載順が正しければ、他の音頭の間に入れられ、消え去る寸前のみつ節(デコンショ節)なのかもしれない。しかし「デコンショデコンショで半年暮らす後の半年泣き暮らす」とあり、明治末期までは篠山では寝て暮らすではなかったようである。その後ハンヤ節等の寝て暮らすをだれかが取り入れたものという説が一般的なようである。
 昭和十年頃より戦時中盆踊は禁止され、戦後は翌年から祭文音頭と黒井音頭が昭和26年まで、盆踊唄の主役をつとめたが黒井音頭はそれ以後一度も唄われることはなかった。
 南氏が「郷友」100周年記念号に明治末期篠山町やその近辺では、江州音頭、河内音頭、福知山音頭のような派手な面白い音頭にとってかわられ、みつ節のような単調な……と書かれていたが、デコンショ(みつ節)の変わりに河内音頭、福知山音頭が篠山町近辺で踊られた事実は全くない。そして昭和28年のデカンショ祭とつながっていくのである。

デカンショ祭が育て上げたデカンショ節


 当時デカンショ節にかかわりをもつ人たちの努力により、それぞれの立場で、篠山の民謡として育て上げたのが実をむすび今唄われているデカンショ節になったのは疑う余地はない。言い換えればデカンショ祭が育てたのが現在篠山で唄われているデカンショ節である。当然篠山の行政、商工会、観光協会等が、バックアップしてきたのはいうまでもないことである。旧制一高生をはじめ他の多くの学生たちが唄った学生歌デカンショ節は、他の土地で唄われていたのを聞かれたことはあるかもしれないが、この地方の庶民に唄われた痕跡は不思議に残っていない。今のデカンショ節の元唄は、それはこの地に生きつづけていたのである。本来民謡というものはそういうものなのだと思う。
民謡だけではないが、歌舞音曲は祖先帰りという現象を起こすことがよくある。それは人間がその様式のなかを生きつづけてきた証拠である。デカンショ節の明治中期への祖先がえりは、南氏の提案されたデカンショ100年が引き金になった。南氏は自分の故郷でもないのに篠山のため色々なことでご協力いただいている。デカンショ節の研究にも力を入れていただいている、なかなかできることではないが、亘理氏と塩谷氏の出会いがなければ今のデカンショ節はなかったとの言葉は、如何なものとしか、デカンショ節を愛する我々篠山人には思えない、また、440余年前の一氏属の係累とデカンショ節との関連付けは全くナンセンスとしか言い様のないものである。ただ篠山と関わりのない土地の学生たちや一般の人達の間で、流行歌としてただ唄われただけのものである。
一例が多紀郡東部の音頭取の名手として知られていた、村雲の脇田太助氏(大正2年生まれ)はいう、バンカラな学生歌デカンショなど子供の頃から耳にしたこともない、聞いたのは崎山さんのデカンショだったが唄った事は殆どなかったが、戦後デカンショ祭の一.二.年前から崎山さんのデカンショをうたったという。そして篠山の人達(ひとたち)により50余年の年月をかけ育て上げられ変化したのである。崎山氏が土地の民謡にするため改作を試みてから80余年である。

前のページへ その2 次のページへ