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昭和のはじめ、篠山実業協会(篠山商工会の前身)が新民謠ブームにのり、篠山小唄の制作を検討していたころ、当時の古川町長は盆踊をデカンショに統一するため、みつ節の由来、踊りの振りを、城北村寺内の尾川誠一氏に其の探索を依頼されたことがあり、同じ村の古屋元吉氏がみつ節はこの辺りではデッコンショ節と呼ばれ、この土地特有の盆踊であった説明と、踊りを披露した事実がある。しかし町長の期待していた豪快な唄でも踊りでもなかったため、この件は打ち切りになった。何故当時の為政者はデカンショが豪快でなければならなかったのか。古川町長は旧陸軍少将であり、学生たちの唄った学生歌デカンショと混同されていたと思う。同席した尾川氏が弟の栄三郎に伝えた踊りの振りは、体を細かく揺りながら足を交互に踏出し手を交互に下からかつぐように肩の上方に上げること、それから両手でなにかしてから手を胸の前で三つ叩きながら歩いたという程度のものだったと1959(昭和34)年教えてくれた。そのときはそれが後で大変な意味をもつことに気付かず聞き流し20数年がたった。
1997(昭和62)年の3月、戦後の盆踊の凄いばかりの盛況について話がでたとき、1946(昭和21)年の8月呉服町の日の出すし前の通で盛大な盆踊があり、すでに黒井音頭が唄われていた。みようみまねで踊っていると、突然デカンショが唄いだされ、わずか数分だったが私はかなり年配の人の後からついて踊った。そして何と素朴な、土の匂いのする、簡単ながら良い踊りだなぁと思ったものだ。其の人が「こんな唄やったら踊れんわぃ」といったのを今でもはっきり覚えている。そして不思議にその踊りの振りが私の身体に焼き付いていたのだった。
そして、その踊りの振りを思い出したとき、伯父尾川栄三郎の20数年前のみつ節踊りの振りの話しを思い出し強い衝撃を受けた。1946(昭和21)年どこの人か知らない人と踊った踊り、それは紛れもないデコンショ踊りだったのだ。私が子供のころから伯母が舞踊の師匠だった関係で、自分の生活のなかに多少だが踊りがあったから、その踊りの振りを覚えていたと思う。しかし今のデカンショ節にはあわない踊りであることには間違いはない。これは篠山のデコンショが表舞台にでるときまで、そっとしておこうと心に決めていた。幸いにも、2001(平成12)年その姿を見せ息を吹き返した。これから上手に育てていく責任がある。歌い手、踊り子の個人的な好き嫌いの次元ではない。これは篠山の文化にかかわる問題なのである。そして祖先から残された文化遺産としてのデカンショ節(デコンショ)が唄い踊られた日こそ本当に記念すべき日ではないだろうか。
まず、デカンショ節をみつ節を元とする盆踊唄としての民謡と位置付けなければならない。半世紀近くつづいた、デカンショ祭がそれを証明し、全国的にすでに公認されている。単なる俗謡、三味線唄ではない。
したがって、好むと否にかかわらず今となっては実在する二つはどちらも、本物の盆踊唄デカンショ節というほかはない。本物同士、目くそ鼻くそを笑うようなことをしていたら、本当の意味でのデカンショの保存振興は望めない。うまく両者を生かせることは可能である。たとえば当地では、篠山さわぎのよしこのと後藤何某の唄った、本調子甚句がうまく合体して後藤節(篠山でいう篠山節)が誕生しているではないか。その方式は、郡上八幡の古調かわさきと、かわさきの様な組み合わせる方法も考えられる。それはデカンショ祭りの聡踊りのはじめに、(郡上踊りのように)三~四分間その古来の歌と踊りで総踊りの始まりを告げ続く総踊りにより以上の盛り上がりを呼び、そして今の踊りと前の稲刈りの輪踊りを上手くジョイントさせることで、より踊りに楽しみを加えことが出来る。そして終わりを告げ、余韻を残すため、少しの間デッコンショを唄い踊るのである。まずは篠山の民謡家の決意と努力と質がとわれるが、私の知る限りではうまくできると思う。この際、篠山人は、篠山人自身で考えることである。篠山の民謡はそこからうまれ育つものなのである。
一日も早く取り掛かるべきことといえる。
たとえば木曽節はだれでも歌えるが、その本場にいけばその歌に日本の旋律が残っているためその曲調は驚くほど違う。そしてテンポもゆっくりし若者向きでもないのに、遅くまで楽しそうに踊っている。唄と踊りがいいからだと木曽福島の人は誇らしげにいう。私がいいたいのはまず盆踊も当然郷土色をもつものでなければならないが、唄がよくなければ駄目だということである。前出の木曽節、佐渡おけさ、などその適例で特に越中おわら節等は歌のよいのが身上である。このおわら節が今の曲調に改良(当然八尾の人だが)されたのは、1913(大正2)年のことで、その後土地の人たちにより改良され今日にいたっている。
明治のおわりから大正のはじめにかけ一時不振だった阿波踊りが、ハイヤ系の踊りは残し、唄だけ流行した、よしこの節を移入し定着し成功した例もある。
その土地の人が唄う歌でも人によって微妙に節回しが違うのに気付くことが多い。踊りも踊る人により微妙に異なる。それが民謡であり民踊なのである。その土地の人が唄う歌が、踊る踊りが本物だということを忘れないことである。しかしそれは、その土地で唄い踊られている基本的な約束事を守った上でのことであるのを忘れてはならない。
洋楽演奏によるデカンショ節のアレンジで一つの催しを よく知られた民謡で、色々なリズムで編曲、演奏されているCDやテープも売られているが、そのなかでまず見つからないベストテンの一つにデカンショがある。
本物の曲は本物の曲として、本物の踊りは本物の踊りとして認め、デカンショ踊りの終わった後、サンバ、ルンバ、マンボ等々、デカンショをうまくアレンジした曲にのって自分なりに、仲間と楽しむのもよいではないか。テープでもMDでもよいのである。ただしそれは、祭の一つの催しとして行うという決まりのなかでである。
不思議に、サンバ、ルンバ、マンボ等でも同時に両足で地を蹴り飛び上がることはない。今の踊りをうまくアレンジすればよい。若者ならそれに挑戦し、がんばれといいたい。今年のデカンショ祭にはその様な祭の姿をみたいと思うのは、私だけでもなさそうである。ただしルールは守ること。ある知り合いの民謡団体が記念大会で伝統民謡を洋楽にアレンジしアレンジした踊りを賛助出演で披露されていたの思い出す。たしか網のし唄だったと思う。しかしそれはデカンショには似合わないモダンバレーだったと記憶する。
伝統文化とそれの保存、振興を目指す新しい何かを模索するのも、無駄ではないように思える。伝統文化も消滅してしまえばその復活は難しいのだから。デカンショ節を色々なリズム、テンポに編曲し、町の商店街にその音を流したりすることが、ただちに伝統的なデカンショが衰退していることを意味するものではない。色々な生活、芸能文化がボーダーレス化しつつある様に見えるが、それは意識しているか否かは問わず夫々の国の夫々の文化を理解しそれらの共有を目指しているのだといえるのではないだろうか。新しいものと、伝統ある古いものとの相互理解を強めていこうとしているものと信じている。ただし、それぞれの土地の(例えばよさこいソーラン等の)伝統文化を傷つけるようなパフォマンスは全く範疇を事にするものである。バンドのグループによる色々なリズムによるデカンショ節のコンクール等考えてみれば面白い催しになる可能性がある。観光客だけでなく、そして老若男女をとわず篠山に住む人達がもっと楽しめる祭のあり方を真摯に模索しなければならない時期にきている。
そして、デカンショ節とその踊りが、デカンショ祭りの名の下での催しものの一つでは無く、堂々と一人歩きできる様に、為らなければ、と思うのは私だけでないはずである。
篠山近辺のみつ節踊り発掘復元は、偶然の重なりがもたらした奇跡に近い。もしかって古川篠山町長のみつ節とその踊りの探求調査がなければ、恐らく発掘復元はできなかったと思う。だれが、何時、何処で唄にあわせて踊りだしたかも判らない踊り、此れが本来の盆踊である。1997(昭和62)年の変更した踊りにみつ節の一手の一部のみ取り入れている。
デカンショ節の盆踊をはじめ、この土地に残る労作唄、お座敷歌等一般の農民や、商人たちの唄い踊るという生活様式一つの範疇の考証でさえ、大変なことである。いえば理解出来ない不思議なことが多すぎる。なぜ、なぜが多すぎる。
また亘理氏本人のデコンショ節についての記述えの批判さえまったくなされず当然のごとく受け取られていたのか、今日においてもそれをしたのは私一人かもしれない。無関心だったのか、ながいものには巻かれよの諺に従い無関心を装っていたのか、どちらかだろうと考えられる。
私が、好きなのは祖父が歌てくれたデコンショである。今のデカンショ節は篠山の情緒、人情風土も何一つ感じさせない曲調だと思うのは私一人ではないはずと思う。
そして過去の過ちをくり返さないよう、祖先の残してくれた盆踊や民謡やその踊りは文化遺産として、大切に育てていかなければいけないと身にしみて思うこのころである。
なお理解しておいていただきたいことの一つとして、よく対比される阿波踊りや三原ヤッサ、そのイメージで作り上げたよさこい鳴子踊り等騒ぎ歌やハイヤ節から移入された踊りとは、デカンショ踊り、福知山音頭、祭文音頭、播州音頭、郡上踊り、木曽節、越中おわら節等とはその踊りの属する範疇が異なることである。
私のデカンショ節に関する研究、考証は一歩を踏み出したばかり、したがって未完のものである。また事情により記載できなかったこともあるのを諒とされたい。
2002年3月21日