●日本陸上界に輝け 旭化成で活躍の小島兄弟 | |
陸上競技マガジン 1997年2月号 |
1997年1月1日、群馬県で行われた第41回全日本実業団駅伝大会で、篠山町般若寺出身の小島宗幸・忠幸君兄弟が見事な走りをみせ旭化成の優勝に大きく貢献しました。弟の忠幸君は花の1区(12.1キロ)を担当、強豪選手が顔を揃えるなか健闘し5位でタスキを。2区(8.4キロ)で待ち構える兄の宗幸君は、タスキを受け取ると前評判通りの力強い走りで早くも3キロ地点でトップに立ち、区間賞を獲得する大活躍。 新春早々テレビの画面に映る二人の勇姿は、丹波篠山の人々に熱い感動と大きな喜びを与えました。 日本陸上界の名門旭化成のホープとして活躍が期待されている小島兄弟は、いずれも篠山中学校を卒業後、高校駅伝で全国に名を馳せている兵庫県立西脇工業高校に入り、都大路での全国高校駅伝大会にも出場。兄弟揃っての全国制覇も経験しています。 旭化成には宗幸君が94年、翌年の95年に忠幸君が入社。厳しい練習を重ねながら数々の大会を経験し、着実に成長する若い二人。ますますの活躍を祈りながら、ふるさと丹波篠山からガンバレコールを送りたいものです。 (村山紳一) そして1998年1月の第42回全日本実業団駅伝大会でも昨年同様選手層の厚い旭化成にあって小島兄弟が再び1,2区を担当し、最大のライバルエスビーを振り切り、旭化成の連覇に貢献しました。 1997年末の福岡国際マラソン大会で健闘した直後であっただけに見事な力走と評価されます。 |
小島兄弟の高校駅伝史 (敬称略 文責:植村富明) | |
篠山町役場前を出発 |
1991年 宗幸はうわさによれば駅伝の名門報徳学園に入学するといわれていたが、実際には、一方の雄西脇工業高校の門をたたいた。結果としてみればこのあと、報徳と西工の力関係の逆転を生んだ要因としてあげられるだろう。それはともかくとして長距離ランナーとして素質を持っていた宗幸は名将渡辺監督のもと着実に才能を開花させていった。 第46回全国高校駅伝兵庫県中央大会(11月10日) 選手層が厚く2,3年が常に中心となる西脇工業にあって宗幸は1年生でレギュラーの座を獲得し、6区を受け持った。 報徳から5秒差の2位でたすきを受け取り、前をゆく報徳2年の上西(健)を終盤ついにとらえ、同タイムながら首位を奪還した。結局、西脇工業は9秒差で優勝した。 第42回全国高校駅伝大会 宗幸はついに念願の都大路を走ることになった。大会は大牟田が本命とされ、対抗馬として西脇と見られていた。大牟田は横綱相撲を見せたが、西脇は調子のでないまま5位に終わった。その中にあって宗幸は6区区間2位と好走し、翌年にのぞみをつないだ。 |
1992年 忠幸は兄の後を追って西脇工業に入学した。この年、西脇工業には忠幸のほか、中学3000メートル日本記録保持者の石本、木庭などそうそうたるメンバーが入学した。 忠幸も順調に力を付けていった。故障の石本に代わって出場した国体少年B3000メートルでは3位に入り、華々しいスタートを切った。 第47回全国高校駅伝兵庫県中央大会(11月8日) 兵庫県大会史上最高の激戦となり、1秒差で西脇工業が優勝した。 報徳が前半を大きくリードする展開となり、4区宗幸は44秒差でたすきを受け取り、30秒つめ、さらに5区忠幸が9秒を詰め、5区の終わった時点でわずか5秒差としていた。結局ゴールまで競り合い、1秒差で西脇工業にがい歌が上がった。 第43全国高校駅伝大会 大会は2枚のエースを持つ由良育英(鳥取)が優勝候補の最右翼と見られ、粒ぞろいではあったが、大砲のいない西脇工業は中京(愛知)らと並び対抗馬とされた。 レースは予想通り、西脇工業はエース区間の1区で1分近い差となり14位と出遅れた。そこから徐々に追い上げていくといういつもの展開になった。前が見えない状態でたすきを受けた4区宗幸は韋駄天の走りで猛然と追い上げ、ついに首位に躍り出た。兄弟のたすきリレーとなった5区忠幸は同じく区間1位の快走で差を決定的なまでに広げ、試合は西脇工業が圧勝するという結果となった。報徳が出ていても同じ結果となったと見られていた。 |
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1993年 3年生になった宗幸はトラックシーズンにはいまひとつさえず、忠幸も故障上がりであったが、秋口にはふたりとも復調を遂げた。 第48回全国高校駅伝兵庫県中央大会(11月7日) 前年度全国優勝の西脇工業は小島兄弟、石本の前年のメンバーに木庭を加え、4本の柱として大本命とされた。レースは忠幸が1区を受け持った。しかし忠幸はいま一つさえず、1位に3秒差の31分20秒という凡記録に終わった。兄宗幸は報徳と1秒差でスタートした。報徳のエース中馬と互角の勝負となったが1秒差をつけてリレーした。両者3年連続の区間賞獲りは宗幸にがい歌が上がった。勝負は終盤にエース級の木庭を投入できた西脇工業が1分あまりの差でゴールした。 第44全国高校駅伝大会 当然のことながら全国大会でもエース格、総合力どれをとってもナンバーワンというのが衆目の一致するところであった。 1区石本は区間8位ながら仙台育英の留学生に最小限度の差でたすきをつなぎ、2区で差を詰め、順調な出だしとなった。悲劇は3区で起こった。忠幸は留学生を追うべく順調なスタートを切った。途中緊張のあまり突然の大ブレーキを起こしてしまう。4区宗幸は猛然と追い上げ2年連続の区間賞を見せ、さらに木庭は6区の驚異的な区間賞を獲得したが、その差は挽回されることなく、3位に終わった。小島兄弟にとってはくやし涙の大会であった。宗幸は弟にすべてを託して高校を卒業し、旭化成へと進んだ。 |
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報徳新庄と競り合う忠幸 |
1994年 西脇工業は史上最高といわれた93年をはるかにしのぐ陣容となっていた。 トラックシーズンは5人がインターハイ入賞を果たした。忠幸は3000SCに出場し、ジュニア世界記録保持者のジェンガに続いて2位となった。(ちなみに3,4位も西脇工業が入っていた) 第48回全国高校駅伝兵庫県中央大会(11月7日) 5000メートルの記録が14分ひと桁台に木庭、小島、10秒台前半に石本、前田、20秒台に岡田、7人のチーム平均は14分20秒であった。誰もが西脇の勝利を疑わなかった。 1区には昨年同様忠幸がたった。快調な滑り出しであった。しかし、またしても大ブレーキを起こしてしまった。1位報徳の新庄から遅れること1分8秒、12位に転落した。突然の不調は勝負区間の3,4区石本、木庭にも連鎖反応を起こし、逆転には至らなかった。99.9%勝利確実といわれた西脇はこうして報徳の前に崩れ去った。 第45全国高校駅伝大会 いつもならこれでThe・エンド。忠幸は悲劇のランナーとして終わるところであった。しかし、記念大会となったこの年、西脇工業は近畿大会で圧勝して、記念切符を手に入れた。 全国大会は周囲の喧騒をよそに渡辺監督は忠幸を勝負区間の3区に再度投入した。1区石本は大会史上初の28分台の区間記録を樹立した仙台育英のジェンガとの差を1分以内におさえた。忠幸はもう一人の留学生マイタイに続く区間2位で走りきり、完全復活した。終わってみればその他5つの区間すべてで区間賞を獲得し、20世紀中は破られることのないといわれる2時間3分21秒という驚異的な記録で優勝した。 忠幸は最後の最後ですべてにけりをつけ、兄の後を追って旭化成へと進んだ。 |