朝日新聞の創始者 上野理一(うえのりいち)
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上野理一は嘉永元年(1848)10月、父保兵衛(やすべい)、母かねの長男として篠山町西町の生糸商西垣屋の家に生まれる。13歳の春、藩校振徳堂教授渡辺弗措(ふっそ)
の門に入って学び、のち政治家になった同門の先輩法貴発からも多くのことを学びとりました。 明治3年(1870)、久美浜県(現京都府)の産物系吏生をかわきりに、地方の官吏を経て明治13年(1880)10月、当時まだ大阪の小新聞でしかなかった朝日新聞社へ入社。翌年社主から経営の一切をまかされ出資金総額三分の二を村山隆平が三分の一を上野理一が分担する事となる。その後の経営を村山と二人で行い、優秀な人材をつぎつぎに招きデモクラシーを社風とする大新聞の基礎をつくりあげました。 理一は美術の世界も造詣が深く、我が国の美術品が国外へ流出するのを嘆き、私財を投じて美術雑誌国華を発刊し、日本美術の啓蒙につくすだけでなく、個人としても銅器玉書をはじめ中国などの古美術を愛好しました。大正8年(1919)12月31日大阪東区平野町の自邸で逝去。72歳でした。 |