篠山教育の先駆者 渡辺弗措(わたなべふっそ)
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篠山で生まれた渡辺弗措は幼少のころから大変読書を好み聡明でありました。京都の学者猪飼敬所(いのかいけいしょ)について学問を修めた弗措は敬所にとてもかわいがられ、大塩平八郎が敬所を訪ねて質問をすることが多々ありましたが、その度に師の代わりに対応することが多く、その理路整然とした態度は見事でした。弗措18歳の時であります。その英明がよく知られるところとなり、嘉永元年(1848)、 江戸へ出て昌平校に入り、諸国の俊才と交わり、弗措の学識をさらに上げました。その後、篠山に帰郷。藩の学制をまかされ、藩校の運営に携わりました。廃藩後は伊丹の酒造家小西家の招きにより居を移しましたが、明治10年(1877)、篠山中年学舎の設立に際し教授を命ぜられ、篠山の子弟の教育にあたりました。 弗措の薫陶を受けた者は法貴発をはじめ明治から大正、昭和の初めにかけて活躍しました。明治15年、神戸師範学校教授を最後に教職をさりました。多くの著作を残しながら三度の火災にあい焼亡しましたが、弗措の教育に対する熱情は王地山の碑をながめるとき伝わってくるようです。 明治18年2月6日神戸の兵庫で病没しました。時に67歳でした。 |