自由民権の父 法貴発(ほうきはつ)
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板垣退助らと自由民権運動を唱え、関西自由党の重鎮として活躍した法貴発が篠山出身であることはあまり知られていません。 法貴発は弘化2年(1845)篠山に生まれ、幼少より度胸がよく考え深い少年でした。篠山藩振徳堂で駒沢撫松渡辺弗措から学び、19歳のとき江戸に出て昌平校に学びました。その後、国事に奔走し明治維新後は政府に出仕し、大蔵省や地方官吏を経験しました。特に大蔵省時代には地租税改正に力を尽くしました。しかし、多年の過労から病にかかり、それを郷里篠山で養い、その間に多くの子弟の教育にあたりました。時あたかも自由民権運動が盛んとなり、板垣退助らと運動を展開しながら篠山の地においても自由舎を結成し、自由民権の思想を説いてまわりました。明治23年(1890)10 月、多年の功績が認められ第一期兵庫県選出衆議院議員となりましたが、病で出席できぬまま45歳で亡くなりました。しかしながら、日本外史弁妄英国上下院沿革評論を始め多くの著書を残し、篠山の生んだ明治の政治家として知られるようになりました。 |