蘭法医 小野田篠庵
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ドイツ人医師ポンペは、シーボルトの後をおって、安政4年(1857)に来日し、日本で体系的に医学教育を施した人として知られています。 このポンペ、さらにベルギー人の医師ボウードインについて西洋医学を修めた多くの人の中に小野田悌弼(後の篠庵)がいました。悌弼は篠山藩士小野田与十郎の弟で初名を貞録といい、壮年に篠山を出て、当時江戸幕府医官松本良順について医学を修め、その後長崎に行きポンペ、ボウードインについて西洋医学を本格的に勉強し、後に大阪へ帰り開業しました。
篠庵の性格は伝えるところによると奇行で知られ、たえず紋付羽織を着、外出の時は、師ボウードインからもらった一種異様の帽子をかぶり、太い洋杖をもって人力車に乗り、大阪市中を走り回るので、人々は驚き見張りました。
往診の際もこの服装で通した篠庵も、患者に接する時は懇切丁寧で、大阪の庶民からは「篠庵先生」として親しまれました。 かつて篠山に帰省した時、老母を慰めようと身に例の服装をして、母を背負い堀端を一周して人々を驚かしました。また篠山を生涯忘れぬために、自ら「篠庵」と号し、家紋に「篠」を用い、客に出す菓子にも、「篠」の模様を付けました。 奇行名医と親しまれた篠庵も、寄る年波には勝てず、明治23年多くの人々に惜しまれながら生涯を閉じました。 |