大徳寺 明堂和尚
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「我一休にあらず、半休なり!」明堂和尚臨済宗の名刹で、茶道でも有名な大徳寺、京の北、紫野の在り、その山内には千利休、小堀遠州などが草案を結び、茶の場と切っても切り離せない寺である。 文化11年(1814)12月17日、この大徳寺の429世として明堂和尚が迎えられる。 和尚は明堂宗宣と称し、明和5年(1768)篠山藩老田塩家に生まれる。のちに大徳寺東溟和尚に参禅し、臨済宗を極めた。さらに一休禅師にゆかりの深い、滋賀堅田の祥瑞寺の住持も兼ね、その風貌は一休禅師によく似ていたといわれる。 しかし、明堂和尚は「我は一休に遠くおよばず、半休にて足れり」と自ら半休道人と称し常日頃から茶の湯を好み、詩を作ることや書画を画くことを楽しみにした。 その中でも墨で竹を描くことを最も得意とし、竹のすがすがしさを終生愛した。 明堂和尚の画き残したものが篠山の地に何点か残っているが禅僧らしい何の屈託もない素晴らしいものである。天保8年(1837)9月25日、70歳にて世を去るが、死に際して「殺活自在 茲七十年 不会仏法 罪過弥天」の遺偈(遺言)を残している。 |