万尾時春は六兵衛といい、篠山藩士万尾次太夫の次男、独学で数学をおさめ、享保7年(1722)「見立算規矩分等」2巻を、同10年(1725)に「歓農固本録」2巻を、さらに同11年(1726)に「井田図考」2巻を著した。 当時の測量術は竹竿と方盤をもって測っていた。しかし、時春は真鍮製の四方六面様分曲尺を考案し、今までの測量に水を盛って水平を正す方法により、たて、よこ、高さ、低さ、広さ、狭さを自由に測ることに成功した。 時春はその著書の中で「測量の違うときは、その道具にあやまりがあるのではなく、測る人の手違いである」といいきっている。 四方六面様分曲尺のあつかい方については「立見算規矩分曲等集」に詳しく著している。 また、万尾時春は藩の経済政策にも度々進言し、農業経済のあり方や算法を「歓農固本録」「井田図考」で適切に指導している。 さらに松宮俊仍らの多くの子弟を育てたが、寛延元年(1748)篠山藩主松平氏の移封にともない丹波亀山(京都府亀岡市)に移ったが、宝暦5年(1755)12月28日に亀山で没した。 |