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篠山城物語篠山城

近畿地図
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写真提供/東海大学情報技術センター

右図
徳川家康画像(大阪城天守閣蔵)
松平康重画像(長安院蔵)

篠山城築城の構想



徳川家康 徳川家康は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、石田三成ら西軍に対して勝利を収めると、慶長8年(1603)に征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた。
 だが、それによって徳川氏が完全に天下を掌握したわけではない。大坂城には豊臣秀吉の後継者である秀頼が健在で、なおかつ豊臣家ゆかりの諸大名たちも未だ勢力を温存していたからである。
 家康は、天下を実質的に支配するため、豊臣家を支持する西日本の諸大名たちを、軍事力と新しい政治体制によって押さえ込む必要があった。彼は、大坂城を包囲する形で、近畿地方の主だった城に、信頼する武将たちを次々と配置する。
 篠山は、山陰道の護りの要であり、大坂城と西日本の諸大名を分断するのに格好の地であった。
松平康重 慶長13年(1608)、家康の実子である松平(松井)康重が、常陸国(茨城県)笠間城から八上城(篠山城の南東方向にあった戦国領主波多野氏の居城)へ移封されてきた。篠山により実戦的な城を築かせるために、家康が送り込んだのである。
 家康は、新城築城に強い関心を寄せていた。康重から、わざわざ八上城と笹山(篠山城築城地)の絵図を取り寄せ、地形の様子などをつぶさに調べた上で、自ら笹山に城を築くことを決定している。その時、康重の使者として家康に絵図を持参した、家臣石川信昌の言い伝えによれば、「御前へ呼ばれ、八上の古城と笹山の様子を詳しくお尋ねになられた。絵図が分かりやすいということで、たいそうご機嫌がよく、自分の親のことまでお尋ねになられた」(『聞見集』坤)とあり、家康が上機嫌であった様子がうかがえる。大坂城包囲網の拠点がまた一つ増えることに、大きな満足感を得ていたようである。
 康重が移封されて1年も経たない慶長14年(1609)の春から、篠山城普請が開始された。