「丹波篠山城之絵図」内閣文蔵庫 クリックすると大きな画像が出ます。
藤堂高虎画像(四天王寺蔵・津市)
本田正信画像(徳本寺蔵) |
家康築城を急がせる
幕府は、篠山城普請奉行として、藤堂高虎、松平重勝、内藤忠清ら5名を派遣し、実際に工事を行う助役大名には池田輝政、福島正則、毛利秀就、山内忠義ら西日本15カ国の20にのぼる諸大名を動員した。この助役大名の多くは外様大名であり、幕府の狙いは大坂城包囲網の拠点を作ることと、外様大名の経済力を削ぐことにあった。
篠山城の縄張を行ったのは、藤堂高虎である。高虎は、宇和島城や伊賀上野城など数多くの縄張を行った築城の名手である。徳川家康は、高虎に篠山城の縄張を指示し、高虎は家康の目の前で図面を書き上げている。
篠山城普請が始まってまだ日も浅い5月下旬、駿府城にいた家康から、高虎が呼び出される。家康は、工事を早めることを高虎に厳しく命令する。高虎はすぐに助役大名たちに檄文を送り、工事を督促している。
檄文が功を奏したのか、主要工事である石垣普請が、開始からわずか半年後の9月中旬には完成した。家康は、高虎を駿府に呼び返し、その労苦をねぎらい、普請を終了させた功績を賞賛している。片や、普請奉行の一人内藤忠清は、家康に石垣完成を報告に行った際、非常に冷たくあしらわれている。忠清が十分に奉行の役割を果たさなかったことを、すこぶる不愉快に思っていたようである。
石垣の工事が完成した後で、城建物の建築が始まった。建物を造ることを作事と言うが、これを始めるに当たって、家康の側近本多正信から強い戒めが松平(松井)康重のもとにもたらされた(『聞見集』乾)。
「隅櫓や多聞櫓は造る必要はない。榧塀で十分である。天守も必要はない。材木を天守台に算木積みにして置いておけばよい。大がかりな建物は、籠城戦ともなれば簡単に取り壊すことができず、邪魔になるだけである。ただし、弓、鉄砲の隠狭間はしっかりと造っておくように、狭間が人目に付くようであれば、敵に狙い撃ちされるもとになる」という内容であった。
実際、篠山城には天守閣は築かれていない。また、築城時の塀はその大半が板葺きとなっている。幕府は、大坂方との戦いを想定して、篠山城を虚飾抜きのより実戦的な城に仕上げようとしていたのである。
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