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篠山城の普請篠山城は「笹山」という丘陵に築かれた。笹山の東には黒岡川が流れそれが篠山川に合流し、その合流箇所一帯が、「白鯰」と呼ばれる沼地を成していた。 春に普請がスタート、すぐに用材の伐採が始まり、笹山の中腹にあった春日神社が黒岡に移された。 城普請は、石垣構築のために石材の入手から始められた。石垣には、膨大な量の石材を必要とする。助役の諸大名は、石を切り出す「石場」と、普請現場の「丁場」に配下の者を詰めた。伊予の加藤家では、700人近くの人足を篠山城普請に送り込んでいる。 石材は、市内の鷲尾、宮田、追入、当野、油井などで調達された。土佐の山内家の記録には、「せばき谷に右の御普請衆入こみ申候故野も山も人にて御座候」とあり、混雑する丁場の様子が窺える。 切り出した石を運搬するには石車が必要だが、その調達もスムーズには行かなかった。同じ山内家の記録には、「石車儀(中略)御誂に差相申候遅出来仕由申候‥‥」とあり、諸大名が競って石車を誂えようとしたため、その手配がうまくいかなかったとある。 また、石場とされた鷲尾谷の庄屋文書には、「篠山普請の年に大倉道も大石を車にて下成 畠中をふみやぶりして新しい道が出来‥」とあり、石場と丁場を往復する石車で、農民が難儀をした様子がうかがえる。 丁場では、岩盤が工事の邪魔をした。城が築かれた「笹山」は、山の大半が岩盤となっていた。人力で岩盤を切り崩し、整形していくのは至難の業であった。石川正西の『聞見集』坤には、「本城一枚岩にて夜なくは薪をつみかけやきてひるはかなつきつるのはしにて地形引さけ申候」とある。昼夜とない突貫工事が、そこかしこで繰り広げられたのである。 この年の12月、城は工事開始からおよそ9カ月にしてほぼ完成し、松平(松井)康重が初代城主として入城する。 資料は春日神社旧社絵図(黒岡・春日神社蔵) |