この鳥瞰図はいわゆる「正保城絵図」のひとつ『丹波笹山城之絵図』(内閣文庫蔵)と『丹波国笹山城絵図』(岡山大学付属図書館蔵)を参考に城下町の様子を推定により再現したものです。
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城と城下町の形成
徳川家康に命じられて篠山城の縄張を行った藤堂高虎の伝記には、「八上ノ城地ハ要害悪シキニ依リテ是ヲ廃シ、其辺篠山ニ城ヲ築クベシノ沙汰……」とあり、城を築くにあたってその位置の決定は、周囲に防御上有効な地形的障害物があるかどうかが重要な要因となっていたことを窺わせている。
篠山城は、「笹山」と呼ばれる独立丘陵に築かれ、高虎の伝記の通りその西と東を「飛ノ山」、「王地山」という同規模の丘陵が挟んでいる。また、笹山の南には篠山川が流れ、2つの丘陵と相まって城の護りを強固なものにしている。「笹山の東に王地山があるのは武運長久の徴である」として、笹山に築城が決定されたという伝説も残っているが、実のところはこの笹山を囲う2つの丘陵と河川が、城と城下町を護る要害たり得たからである。
城と同様、城下町も防御に徹して形作られている。例えば、王地山と城との間を流れる黒岡川を、堀として城下に引き込んでいる。そして、その土手には竹を植えている。また、城下を通る街道は、カギ型やT字型に曲げている。すべて、敵の侵入を阻止するための措置である。さらに、城下の出入口には寺院を配置している。城下の出入口は護りが弱いため、寺院に砦としての機能を持たせたのである。当然ながら、武士や足軽の屋敷にしても、その身分によって居住区域を分け、藩主の住む本丸を護るよう重層的に配置している。
城と城下町は、一藩の政治経済の中心地という性格も併せ持っている。城の本丸には公式行事に使用される大書院や藩主の住まいである御殿を建てている。また、藩経済を統制するために、商工業者の住む町屋を、城下を貫く街道沿いに集めている。城完成の翌年、慶長15年(1610)1月には、城下町の地割を行い、八上から町屋を新城下に移したとある。
篠山城とその城下町は小規模なものではあるが、防御と藩経営の両面を考え、綿密な計画のもとに築かれているのである。 |