丹波笹山城石垣損所地図
天保8年(1837)
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藩政日記寛永7年(1854)
藩政日記に残る地震の記述 |
篠山城絵図
篠山城の絵図は、江戸時代を通して数多く残されているが、その大半は石垣破損にともなう修復を幕府へ願い出るために作成されたものである。城絵図の中で最も古い時期の様子を伝えるものは、正保年間(1644〜48)に描かれた「丹波国笹山城絵図」(岡山大学附属図書館蔵)と「丹波笹山城之絵図」(内閣文庫蔵)である。これらは築城時の篠山城の姿を知る手がかりになるもので、大書院復元工事や史料館展示の基礎資料となっている。
江戸時代中期以後に描かれた城絵図としては、ほとんどが幕府に石垣修復の伺いを出したもので、この中で最も古いものは享保3年(1718)の絵図である。また元文2年(1737)の絵図は、石垣修復を5月22日に幕府に願い出たもので、12日後の6月4日に修復を許可した3人の老中の署名が記されている。
その後、描かれた絵図の中には、修復箇所に付箋を付け、何年かに渡って同じ絵図を使用したものもある。しかしながら、文化10年(1813)の絵図の左端に添え書きがあり、今後はこの絵図を用いることが記してある。珍しい絵図としては、天保8年のもので、嘉永7年=安政元年(1854)6月15日午前2時頃に、伊賀上野(三重県)で発生した大地震の余波により、城の石垣が崩壊したことが付箋によって示されており興味深い。
石垣損所絵図以外には、二の丸にあった城主の居館の状況を伝える御殿間取図が4種類、奥御殿の状況のみ伝える図面が2種類あり、計6枚が残っているが何れも江戸中期以降のものである。
これら二の丸御殿図面を比較すると、御殿群のうち主要な建物である書院部分の間取は各時期を通じて、ほとんど変化は見られないが、台所をはじめとする維持・管理部分に相当する間取はかなり増改築された箇所が見受けられる。
石垣損所絵図や二の丸御殿図面を通して、篠山城が歩んできた姿をかいま見ることができる。
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