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篠山城物語篠山城

篠山城の桜の絵

堀の絵

篠山城の絵

版籍奉還後の篠山城


 篠山藩は、明治元年(1868)、朝廷から派遣された西園寺公望ら山陰道鎮撫使一行に城を明け渡し、徳川幕藩体制による政治はこれをもって終わった。
 翌、明治2年(1869)には、領地、人民を朝廷に返還する版籍奉還が行われ、改めて青山忠敏が篠山藩知事に任命された。
 さらに翌年の明治3年(1870)、篠山藩庁舎は篠山城大手馬出しの東に移った。篠山城は、松平三家八代、青山家六代の居城であり、260年余り篠山藩の政治、経済の中心であったが、ここにその役目を終えることになった。
 その後、篠山城は官有となったが、修理されることもなく、明治6年(1873)、太政官布達によって取り壊しが決定され、競売により隅櫓、門などの建物が撤去されていった。櫓や門、屋根瓦は寺院の山門、民家へと再利用された。
 しかし、城内最大の建物である大書院は、取り壊しに多大の費用を要するとして放置されていたのを、旧藩士であった安藤直紀の努力によって保存されることになり、のち教育施設や公会堂、役所として利用されることになる。
 また、安藤直紀は、当時珍しかった写真機を買い求め、篠山城の実景を永久に記録するため、東門などを撮影した。後年、このガラス板の写真をもとにして、当時の様子を聞き取りながら、篠山出身の画家玉置金司が3枚の絵を描き残している。その絵によって、明治初期の篠山城の様子を知ることができる。