篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「交通・通信(道路)」

商店街並に主要道路

慶長15年篠山築城成り、松平康重入城後、城下町設置地割によって大略の道路計画は樹立され、先づ河原町より表通りの魚屋町、二階町、呉服町、立町と、逐次慶長末期までに略商店街が形成された。
 
【河原町筋】
慶長17年に商店街が漸次東へ延びた。
 
【西町筋】
慶長18年、西の方へも商店街が延びた。
 
【士族町筋】
築城につづいて設定。更に寛永2年には、城の東(餌差町-今の東新町)と、城の南(今の南新町)に新町筋が出来た。
 
【お花畑新町筋】
寛永元年頃より今の山内町に新町筋が出来た。
 
【石上寺前筋】
寛永6年8月、今の割場橋より西に新町筋が出来た。
 
【割場裏新町筋】
承応元年頃に出来た。(東新町、餌差町の東)
町名は新につけたものもあるが、八上より其のまま移されたものもある。現在八上内村、八上下村の北の田に二階町、小川町等の字が残っていることによっても明かである。
 
【お徒士町(西新町)道路】
お徒士町道路は天保元年不慮の災火に会い西側を焼き尽くした。此の時藩主は命じて西側再建は6尺後退して改築せしめたので、其分の空地は廃藩まで藩有地に属していたが、明治8年土地台帳設定に際し、町道に編入され、土地台帳図面にも之れが明示されている。
大正9年3月17日、道路法第14条により認定すべき町道の路線、109線を指定した。
 
【街燈】
明治43年電燈が点燈されるまでの町筋の街燈は瓦斬燈と称する戸毎のランプ門燈で、此の点燈は河原町高田油店が之れを引請け、毎日専任の人夫がキャタツを担いで一戸々々町内のランプ掃除と油さしをまことに手際よくやって廻り、日没前になると又之れに点燈して廻ったものである。明治43年電燈の点燈と共に此の情景は見られなくなった。
 
【アスファルト舗装】
昭和10年、11年に於て篠山町本通り並に梅の小路、町駅前、小姓町、大手通りは全部アスファルト道路に改装され、昭和14年には兵営通りが舗装された。
 
【東濠端道路】
明治41年4月、幅員4間道路に拡張され、大正9年4月1日県道に編入された。(篠山須知線)
 
【誓願寺より舊憲兵屯所まで】
明治41年開通、昭和21年県道一部変更により、西町通を廃して、此の線が県道に編入された。(園部三田線、川西篠山線、谷川篠山線、社篠山線重複)
 
【東濠堤防道路】
東南濠を区切って東濠南端東新町より小学校々庭南端に通ずる堤防兼用道路は、昭和2年篠山川下流水利組合との協定に基き、東濠貯水増量のために築かれたもので、目下堤防上は小学校児童の通学道路に利用されている。
 
【郡家所属縣道より南、西町に至る道路】
明治43年聯隊区司令部、憲兵屯所の設置に伴い新設開通したもので、直ちに郡補助線に編入され、憲兵屯所より西町までは誓願寺より憲兵屯所までの道路と共に、昭和21年県道一部変更により、西町通りが廃されて、此の線が県道に編入された。
 
【陸軍墓地参道】
明治43年東新町飛地筋より墓地まで開通し、昭和4年立町本通りから直結する道路が開かれた。
 
【兵営通り】
大正6年3月1日、郡家藤本徳三郎が乾新町郡家所属33間を幅2間道路の新設方、総工費願出人負担を経て請願し、許可されて大正8年に開通し、其の後県道に編入され、続いて昭和3年、町の請願により郡家居籠神社に至る間の幅員が更に拡張され、幅3間半の直通道路となった。工費2万円。(篠山綾部線)
 
【火葬場道路】
昭和9年陸軍墓地南廻り線が開通した。
 
【王地山公園道路】
昭和9年河原町より王地山へ、立町より王地山へ、を結ぶ公園道路を拡張改修して自動車通行が可能となった。
 
【小姓町より来尊橋に至る道路】
大正7年道路幅1尺拡張し、来尊橋西詰より北へ呉服町裏まで新道開通。
 
【来尊橋より立町筋に至る道路】
明治43年開通
 
【楽天座東川沿道路】
軽便鉄道の延長に伴い、此の道路の利用度が高くなったので、道路幅8尺を9尺に拡張した。
此の際北村源正博所有の敷地を道路拡張のため提供したので、北村源正博遺言に基づき大正15年2月町会の決議を経て其の敷地北端に隣接の古道路敷を同氏に無償譲渡した。
 
【南濠端より監物橋に至る道路】
昭和6年起工、昭和8年開通し県道に編入された。(篠山三田線)
 
【本郷篠山線】
昭和25年8月5日、尊宝寺、来迎寺両寺院墓地墓主の了解成り、起工式並に慰霊祭を執行し、同年12月1日竣工開通した。
 
【河原町堤防道路】
篠山川改修による堤防築堤の際、河原町裏堤防は幅員を1.5メートル拡張し、自動車専用道路に利用する事となり、県道路線一部変更により京口より東、新堤防上を篠山須知線に、京口より省営自動車本駅までの堤防道路を篠山伊丹線に編入された。同時に河原町通りは町道に編入された。
 
【櫻通り】
東堀端より元蛤小路を拡張し、桜橋を経て立町筋までの道路を新設して「桜通り」と命名し、昭和28年3月2日、桜橋渡初式を兼ね開通式を行い、山崎町長は因習を破って渡初式には篠山幼稚園の幼児を之れに参加させた。
 
【舊城三の丸東石垣下道路】
昭和27年都市計画公園年度割事業の一環として、篠高運動場より城郭東側石垣に沿うて旧城広場に至る道路並に旧城広場スタンドは、昭和28年3月2日に竣工開通した。旧城周辺は荒蕪にまかせて無気味な而かも不潔極まりない地域であったが、旧城広場の開設と此の道路の開通によって全く面目は一新され、公園化によって一段と旧城の品格を添えるに至った。
 

このページの記事は「2004年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。

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