篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「交通・通信(河川)」
篠山川
篠山川は其の上流を大芋川と称して源を大芋村に発し,多紀郡を東西に貫流して加古川となり、瀬戸内海に注いでいる。
流れは急で舟運の便はなく只管灌漑用として重要な役割を果している。然し昭和24年までは殆んど原始河川で水防上完全な河川改修は未だ嘗て行われていなかった。ために一たび豪雨に襲われると其の流域の被害は甚大で郡内11ヶ町村に及んだ。関係町村に於ては夙の改修を念願して居たが、昭和22年ついに多紀郡篠山川沿岸町村を似て、篠山川改修期成同盟会を組織し、屡々其の筋に陳情を重ねていた。昭和23年認められて篠山川は中小河川改修の対象となるに至り、昭和24年5月篠山川河川改修工事の起工式が挙行せられ、昭和26年先ず篠山川流域は竣工を見た。次に日置村地区、八上村、城北村地区と上流へ工事は進行中である。
流域篠山町と岡野村の境界に青山堰がある。旧藩時代青山藩の管理に属する灌漑用の重要な堰である。落差一丈にも及ぶ程の堰であったが、昭和24年3月の洪水で崩壊した。偶々此の堰は篠山町水源地の稍下流にあるために之れが豊富な水源の因をなしていたので、此の崩壊は直に水源に影響し水源に影響し水源地の著しい減水を招来した。爾来此の復旧方を再三陳情した。河川改修によって落差が著しく減少したが、一方水源地を新設して漸く難をのがれ、此の堰も昭和28年6月に至り漸く完成を見た。南新町一帯の井水はこれがため著しく水位が下った。
黒岡川
現在篠山町内を流れる黒岡川の流域は、古来の流域其のままではなく、篠山城築城の際小川橋の南方約70メートルの所で直角に西へ曲げて流域を変更し、一劃の防御線として利用したもののようである。この直角部の石垣は極めて堅固で三百数十年来、如何なる出水にも堪えてきたという。篠山町史(明治17年編纂)の記録を借りると
「黒岡村太郎兵衛云此川古は寺内村より二派となり、一は春日神社の後丘西下屋敷の東を流れ大手門外薬研濠の処へ来り夫より西せり。其の頃彼の濠のところを薬研淵といいし由聞傅う。と云今按ずるに此説真なるべし。如何となれば前に録する如く、城築きの時黒岡村田地諸士及町民の宅地に引あり、此の田に灌くべき水今なし」
とある。西濠を経て水源地辺りへ流れていたものと思われる。
大正13年来尊橋上下両岸堤防を改修して石垣とした。
昭和11年黒岡川は県費支弁中小河川に編入された
黒岡川は前述の通り、築城の際の防御上、小川橋の70メートル下流より直角に西へ曲げ風深へ流された。爾来不自然な此の流域は水防上に無理を生じ、南新町一帯は洪水毎に被害を受けるのが常であった。本県に於ては篠山川改修を契機として、小川橋より真直に篠山川に切落す事を計画し、昭和26年前川組によって着工、昭和26年8月4日切り落とし工事は竣工したが、河床は低下しつつある。昭和29年小川橋左岸並に板橋右岸堤防を改修して石垣とした。
篠山川洪水記録
明治30年9月 大洪水
明治40年9月 大洪水、京口橋は北半が折れた
明治43年9月7日 大洪水
明治44年8月16日 大洪水
大正5年7月26日 大洪水
大正7年9月10日 大暴風雨大洪水
大正10年9月25日、26日 堤防決壊4ヶ所大洪水
大正11年6月 大洪水
大正14年7月10日 大洪水
昭和5年7月31日 大洪水、京口橋流失
昭和12年9月11日 豪雨大洪水
昭和20年10月 大洪水
昭和25年9月3日 ジェーン台風、豪雨大洪水
昭和28年9月25日 13号台風大洪水
床上浸水113戸、山崎町長は災害救助法適用方申請し、即日適用を受け救助、衛生、土木、其の他国費補助を受ける事に成功した。
(備考)其の他の災害
明治16年8月 大旱魃
明治42年7月 大旱魃
明治43年7月12日 大降雹
大正6年1月26日 稀有の大雪
大正11年5月 大旱魃
大正13年6、7、8月 数十年未曾有の大旱魃不作にて食糧に不自由す
大正14年8月2日 大雷雨、雷落多し
昭和8年7月 旱天続く
昭和11年2月3日 数十年来の大吹雪、吹寄積雪約1メートルのところあり
このページの記事は「2004年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。