篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「交通・通信(新聞)」

郷土新聞

篠山町では、現在、篠山新聞、丹波ニュース、多紀協同新聞の三種が発行されているが、当町に於ける新聞の沿革変遷をふり返ると、かなり古いものがある。
明治24年、在京の郷友出身有志が相謀り「多紀郷友会雑誌」を東京、青山家邸で発行したのが(新聞とはいわなかったが)そもそもの始めであった。ところが、これは明治27年、新聞条例によって発行を禁止された。
これに代って明治28年1月10日「篠山實業青年会雑誌」というものが創刊されたが、翌29年10月15日終刊。
その後帰郷した斎藤幸之助、樋口達兵衛等が幹部となって、新たに「多紀通信会雑誌」を作り、明治29年11月25日その第1号を発刊、以来毎月1回発行を続けたが、明治36年6月28日に「多紀通報」と改題、西羅雪堂が編集主任となり、東新町篠山印刷会社(萩原林三郎)に事務所をおいた。
その後、日露戦役を経て、明治39年8月25日、岡田元三郎等が「丹波新聞」を創刊したが、篠山町に兵営設置の年、即ち明治41年9月15日、多紀通報と丹波新聞は合併して「篠山通報」と改題、今まで雑誌体であったものが、この時始めて新聞体裁のものとなって面目を一新した。後又別に吉田亀若によって「丹波新聞」というのが出来たが、これは間もなく廃刊した。
合併して第1号を出した篠山通報は、大正9年11月1日、更に「篠山新聞」と改題、団野鶴吉が編集主任となった。翌大正10年、同人は退社して別に独力で、6月15日「兵阪新聞」を創刊、篠山新聞と対抗して各々その特徴を発揮した。昭和8年に至り、兵阪新聞は柏原町の関西タイムスと合併して「篠柏新聞」と改題した。
これより先、大阪毎日新聞販売店主萩原林三郎が、勤続30年記念として、大正12年3月10日「篠山毎日」を創刊、始めは大阪毎日新聞社より特報を得て、重大ニュースだけを号外式で報道していたが、大正15年、当時専売特許を得た単式印刷(石版印刷)の分権を受け、斎藤子郊を主筆として月3回発行することとなり、異彩を放っていたが、昭和6年10月より「篠山毎日新聞」と改称して紙面を拡張した。かくて篠山、篠柏、篠毎、三新聞が各々腕を競ったが、支那事変勃発して戦局の拡大と共に、新聞統制の国策により、昭和14年6月20日、三新聞は等しく一応廃刊となった。
続いて、7月1日より氷上郡の「丹波新聞(昭和3年創刊)と合同して、ここに多紀、氷上における唯一の地方新聞として続刊を認められることとなった。ところがこれもまた、時局愈々重大となり、昭和16年11月25日を以て国策に殉じ廃刊となった。
以来5年数ヶ月、戦時中から終戦後暫くは、地方新聞の空白時代が続いたのである。
終戦後に至り、西田静雪編集の「日曜新聞」が企劃され、昭和21年7月7日その第1号が発刊されたが間もなく廃刊した。
かくて戦後の動揺が漸く落着きはじめた昭和22年3月1日、小東恒之亟の経営、長沢敬二の編集によって「五州新報」が孤々の声をあげ、翌23年11月3日「篠山報知新聞」と改名、経営は田村巧に移った。五州新報に続いて、萩原寛太郎を社長とし、長谷正夫を主筆として、かつての「篠山新聞」を復活し、昭和22年9月1日創刊号を発行して今日に至っている。篠山町東新町篠山新聞社発行、月6回。
篠山新聞に続いて「多紀協同新聞」が昭和24年11月23日創刊、山内富三郎主筆となり、篠山町呉服町山内理三郎の経営で月6回発行、今日に及んでいる。
更に、昭和25年12月に「丹波ニュース」が創刊、昭和27年10月30日、さきの篠山報知新聞を合併して、篠山町東新町丹波ニュース社より月6回発行、今日に至っている。
 

支局と通信部

以上、三地方新聞の外、現在篠山町に支局或は通信部を置いている新聞社は次の通りである。
 
神戸新聞社丹波支局 呉服町
朝日新聞社篠山通信局 東新町
毎日新聞社篠山通信部 乾新町 昭和8年5月10日設置
産業経済新聞社篠山通信部 呉服町 昭和26年3月設置
神港新聞社篠山通信部
読売新聞社篠山通信部 呉服町 昭和28年7月設置
 

このページの記事は「2004年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。

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