篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「教育(篠山藩学校)」
同校は明治3年の創立にかかる。初め藩主青山下野守忠高が大いに教育を重んじ、大阪の人関文平(名は世美)を聘して教師とし、篠山城外濠の西南隅に学舎を設けて、振徳堂と名付け、23の藩士を都講として教師を輔佐せしめ、藩内の士民をして校に入り業を受け、専ら漢学を修めさせたのが嚆矢である。
天明年間、藩主青山下野守忠裕が又儒学を好み、京都の人福井厳助(名は軏)を聘して其の講義を聞き、藩士の子弟は幼時必ず一度学校に入べき制を定め、為に振徳堂の傍に更に養正斎、成始斎、挙桂楼等を増築し、挙桂楼には孔子を祀った。藩士子弟は、8歳になれば日課生として必ず藩学校に入り、15歳になり元服すると退学し、後藩士として別の講義を聴く。病気その他の事故の為、幼時入学できない者は、成長後任官又は藩士の養子相続となることが出来ない制であった。当時平民の子弟も藩学校に入ることを許される制であったが、其の許されたものは12に過ぎなかった。学課は漢字、算術、躾方、習字を課し、維新後皇学、洋学、医学を加えた。
又武術は、8歳で藩学校に入ると同時に練習を初め、身を終るまで修養し、其の科目は、弓、馬、剣、槍、兵学、砲術、銃術、捕方等で、其の術に優れた藩士を選抜して師範とし、師範者の邸内に演武場を設けて教授させた。
嘉永年間になって、藩主青山下野守忠良は、渡辺亮太郎(名は世順、号を弗措)を学士に任じ大いに藩の教育を振興したが、後廃藩と共に藩学校も廃せられた。当時生徒の数は、男約300名、總べて無月謝であった。
しかしながら女子教育機関として別に制度はなく、只父母の心掛で家庭又は親戚等で女子に必要な学芸を授け、或は私塾、寺子屋に通わせる位であった。
このページの記事は「2005年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。