篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「教育(知新館)」
明治5年政府は学制を頒布、篠山町は魚屋町所在の誓願寺を借りて小学校を設け、校名を知新館と称し、明治6年4月20日開校した。これが現在の篠山小学校の濫觴である。翌5月22日、呉服町の菱田平十郎の持家を借りて学校を増設し、誓願寺の方を西幹校、呉服町の方を東幹校と称した。当時の小学校は上下等各8階級で、各4ヶ年で卒業する制度であった。児童は開校当初西幹校は凡そ200名で、其の後増加により東幹校を設けると之に通学するもの凡そ90人で、男女の割合は男八分、女二分であった。当時管理者は篠山組戸長安藤直紀で、学務委員は稗島一五郎、三浦幾左衛門、河南仲右衛門等であった。
明治7年には小学校設置区割が定められ、幹校支校の称を廃して篠山東学校、篠山西学校と改称した。
このページの記事は「2005年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。