篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「教育(小学校)」

明治8年1年には東西両校を合併し旧城「二の丸」を借りて之に移り篠山小学校と改称した。

明治8年3月、政府により旧城「二の丸」の中500坪を学校敷地として払い下げられ、又同年4月接続する1200坪の土地を代金20円で払い下げを受け、これを運動場とした。当時は月6銭づつ授業料を徴収する事になり、明治12年までつづいた。
 
明治10年8月26日、風深村を加え、同村に支校をもうけた。
 
明治11年、在籍児童数は男子298名、女子123名、合計421名。これは明治6年開校当時の児童数の約2倍である。しかも当時就学した児童の中には学齢未満のものもあったが、18、19才の学令超過の者もあって、これは明治22、23年頃まで続いた。

明治12年4月、校舎改築の議を5ヶ年延期した。
 
明治13年3月、呉服町、二階町、魚屋町、西町、乾新町、山内町の6ヶ町は本校から分離して始進小学校を誓願寺に創設、翌年3月25日認可。後東岡屋村を組合に入れ、二階町に校舎を新築して之に移り、同15年3月31日開校、明治20年3月まで存続した。始新校分設により本校の組合は、河原町、小川町、立町、東新町、南新町、北新町及び風深村の7ヶ町村となり、更に河原町西坂忠八の宅に河原町支校を設け、本校の外に風深村と河原町と2校の支校を持つことになった。後16年1月河原町支校を廃して本校に合した。
 
明治15年、新たに発布された教育令に基き、高等小学科、中等小学科、初等小学科と改定し、通じて8ヶ年16階級とし明治18年まで続いた。
 
明治17年2月、小学校設置区域を変更、篠山町外八上、城北、岡野村の東部を合し、第一番学区とし、二階町始新校をはじめ諸所に中初等科のみを置き学区内の聨合経済とした。
 
明治18年、学科を変更、本校には中初等科の小学科を置き、他は初等科のみとした。
 

このページの記事は「2005年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。

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