篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「産業・経済(商業)」

沿革
明治時代、篠山町の商業の中心は下河原町であった。各商店が軒を並べ、大売出しなど郡内の顧客を一手に引受けた感があった。殊に郡西部より郡東部の方が農家が豊かであり、購買力も多かった関係もあって、一層の繁昌振りを見せた。当時は各商店とも京都の経済圏に入っており、仕入れなどは一切京都の卸商に依存、京飛脚が毎日車を曳いて京都と往復していた。下河原町には本庄屋、米多、マルセなどの大呉服店をはじめ、荒物の小多田屋、小間物の小満源、紙の広定、油のあかしや、ゆばの井筒屋、菓子の白銀屋、瀬戸物のいづみ屋、薬の奈良屋、火鉢の沢治、印刷の萩原活版所、洋服の平尾など郡内の代表的な商店が揃っていた。
阪鶴鉄道(後の福知山線)が開通してからは次第に大阪との取引が多くなり、明治41年3月、篠山聯隊が設置されてからは徐々に商業の中心は西へ移り、二階町、魚屋町が昔の下河原町に代って繁昌振りを見るようになった。
明治の頃は、各商店とも夜は雨戸を締めていたが、明治45年、マルセ呉服店が表をガラス戸にして雨戸を使わなくなったのが始まりで、その後各商店とも追々ガラス戸となり、陳列窓も形ばかりのものが、ガラス戸を使って装飾を施した立派なものになって行った。屋根看板になったのもこの頃からで、それ迄は板に書いて軒に吊していたのが多かった。
昭和15年頃、戦争が次第に熾烈となるに従って、物資不足が甚しくなって配給制度となり、多数商店が統合又は廃業されて一時は商店街がさびれたが、終戦後は次第に復活して大体戦前の姿に戻った。部隊は消えてその後へ県立農科大学が設置され、かつての軍都は学都へと生れ変ったが、購買力は昔日の比ではない。
下二階町では昭和3年11月、工費3,908円70銭で道路舗装と照明灯(すずらん灯)を完成、その後数ヶ町でも照明灯を備え付けたが、何れも戦時中撤去した。昭和28年6月、はじめて下二階町に工費50万円で15基のネオン燈を取り付け、ネオン街として夜の篠山を彩っている。
 
篠山町商工会
【沿革】
明治45年に篠山町及び近接の商工業者をもって篠山実業協会を組織、会員の親睦と商工業の発展を図るため、毎年初売出し、せいもん払をはじめ、著名な経済界の名士を招いて大講演会を開き、大正15年9月には国産愛用普及大共進会なども催した。
大正15年には篠山電灯会社と共に後援して篠山菊花大会を開催、昭和6年10月26日には懸賞募集により「篠山小唄」(作詞斎藤子郊)を決定、広く篠山を紹介宣伝した。優良店員の表彰、店舗装飾競技会、先進地の視察など成果を挙げたが、昭和10年篠山商工会に改組、戦時中は商業報国会として活躍したが、昭和23年6月再発足して現在に至っている。
 
【歴代の会長】
樋口達兵衞、高田九兵衞、斎藤幸之助、森本精一郎、前川兵次郎、住野丙馬、畑貞雄
 
【業種別】
現在会員は570名であるが、業種別は次の通りである。
ミシン修理販売 14 煙草商 20 菓子商 52
玩具商 4 質商 7 写真業 6
土建業 6 酒類販売商 12 食料品商 21
製材業 4 金物商 8 製麺業 4
印刷業 4 文房具商 16 薪炭商 7
料理飲食店 40 諸車修理業 14 鮮魚商 16
青果商 26 豆腐製造業 4 竹材業 3
洗濯業 5 雑貨商 15 穀物商 10
製靴業 6 美容室 8 旅館業 10
時計商 8 農機具商 7 電器商 13
履物商 15 精肉商 8 建材業 5
化粧品商 15 自転車業 8 表具業 4
油商 5 家具建具商 7 目立業 4
製粉商 3 野鍛冶業 3 製綿業 4
薬種業 9 染物商 6 呉服商 17
醤油製造 2 陶器商 4 古物商 4
書籍商 7 畳商 5 モーター修理 2
錻力商 5 理髪業 7 硝子商 4
種子商 1 楽器商 2 ポンプ修理 2
製瓦商 1 仏具商 2 荒物商 6
湯屋業 5 提灯傘商 2 肥料商 4
石材業 3 印判業 2 娯楽遊戯 5
運道具商 2 医師 14 合計 570
 
【行事】
昭和30年の行事予定は次の通り
2月初旬 初大売出し
4月5日から20日 篠山町さくら祭(濠端に数百のボンボリ点燈)
4月中旬 王地山稲荷神社春祭協賛大売出し
8月中旬 篠山デカンショ祭り
9月下旬 多紀文化祭協賛大売出し(アーチ建設)、多紀郡優勝珠算競技大会
12月初旬 誓文払大売出し
 
篠山魚市場
寛永年間に菱田勘右衞門外4名の共同組織により篠山魚問屋が創立した。
入荷先は丹後宮津港、久美濱、若狭、但馬、大阪、兵庫、紀州、播州で旧藩の保護を受け、他国の行商人は1日1回限り通用鑑札を附与し、鑑札料1回銀2分を収めしめ、旧藩の干渉により郡内追入、小阪、古市に出張見張を置いた。売揚金高は日々町役所へ届出、小売人が問屋へ不払の時は町役所より鍵止めと称して問屋への出入を止めることもあった。冥加金と称して売上高銀10匁に対し2厘5毛の割で税金を小判で上納していた。
明治5年になって廃藩の結果、旧藩の干渉もなくなり同時に郡内各所に同業者が生れた。金融機関がない為、金融業も併せ行って一般人民のために便利を与えていた。
明治8年、篠山魚市場と改称、この時の出入業者27人、小売人50人。明治12年の売上高22,735円である。
明治15年3月2日、篠山魚商社と改称、総代米村忠兵衞、同16年6月上旬非常な早魃で稲苗枯死、農家の人気が悪いため非常な影響を受け、明治17年の売上高17,499円に激減した。
明治19年6月14日、篠山魚商会社と改称、資本金900円、株主18名、さらに明治22年4月、篠山魚市場、同26年11月篠山魚類合資会社と改称した。資本金1,000円、業者28人。
同31年郡内で始めて弁天運輸合資会社を設けた。
昭和5年4月1日、株式会社篠山魚市場と改称、資本金10万円、社長小西竹次郎、同11年4月社長畑秀藏、同16年8月社長は再び小西竹次郎就任、昭和18年9月より畑貞雄社長となる。現在資本金100万円、仲買人67人、1ヶ年の売上高5,500万円、荷送り先は神戸、大阪、京都各中央市場、京都、島根、静岡、福井、鳥取各府県、丹但沿岸である。
 

このページの記事は「2004年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。

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