篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「宗教(春日神社)」

篠山町中央部北側、城北村黒岡の春日山の麓に鏡座し、篠山町の黒岡の氏神である。
 
祭神
武甕槌命、経津主命、天児屋命及び姫大神の四柱である。
武甕槌命と経津主命は、天照大神の命を受けて国土平定の任に当り、出雲国、大国主命に国土献土を伝えた武門の祖神である。
天児屋命は、天照大神を天の岩戸より謀り出し、また瓊々杵尊に供奉して、大嘗の制を定めた治国経世の神である。
姫大神は、天照大神の別名で、藤原氏が天照大神を尊崇して合祀したのであるが、正しくその名を現わすのは畏しとしてこの別名を用いたのである。
 
末社
鏡内には末社として、天満神社、愛宕神社、大神宮社、八幡神社、日吉神社、八坂神社、稲荷神社及び水分神社の八社が祀ってある。
 
由緒
春日神社は、今を去る一千年の昔、当時この附近(日置庄)が藤原昭宣の荘園であったので、住民の意志で祀ったのか、昭宣が住民に命じて祀らしめたものか、いずれにしても貞観年中、大和国奈良の春日神社の御分霊を今の篠山城地(当時は笹山と称する独立丘であった)へ勧請したものであると伝えられている。
後、篠山に築城されるに際してこの地へ移されたものである。旧記「春日宮社記」によると
 
「右の宮山を篠山という。今の御本城の地なり。城築かるるについて社壇を山の内、東山へ奉遷、慶長14年巳酉4月20日、氏子不殘隣郷の者まで服忌不浄を忌みて社壇を昇移し、件の地に奉遷・・・云々」
 
とある。元の社地は旧城二の丸大書院のあった東で「多紀郡名細記〕に
 
「社跡、城中にあり、社跡の廻りに松杉の古木あり、大きさ郭の壘上松樹に同じ、是證なり・・・」
 
と出ている。最初に奉遷した所は、「山の内、東山」とあるのみで、詳しい位置は判明しないが、その災厄相次ぎ、神慮に添わない為であろうと、同年8月18日、今の地に社殿を新築したという。或は今、天満神社のある所へ奉遷したのであるが、慶長16年、城主松平康重に神の崇りがあり、驚いて再び新社を今の地へ遷したともいう。
 
歴代城主の崇敬頗る厚く
 
旧拝殿、舞堂、愛宕社は 元年5年 松平忠国が、
佛殿、護麻堂(今はない)は 承応元年 松平康信が、
神前手洗井は 寛永3年 松平信庸が、
 
寄進奉納し、築城以来「藩社」として藩主より特別の援助があり、近郷の人々の信仰厚い神社であった。
明治6年、郡内の諸社に先んじて郷社となり、大正8年4月、氏子一同崇敬の至情を以て神殿の大修理と拝殿の改築を行い、大正10年7月20日、神社の由緒歴然たるの故を以て県社に昇格した。(昭和21年6月13日「宗教法人令」により社格消滅)
昭和3年10月、大礼記念事業として境内の拡張を行い、昔ながらの山門(寛永年間、鹿王山栄松寺の号を賜り、維新後、神佛混淆を禁ぜられた名残である)をそのまま半間程高くし、六間ほど南へ移した。これによって従来山門の外にあった天満神社は鏡内に入った。
天満神社は、文政10年修理した記録がある外、創建年月など一切不明であるが、慶長16年春日神社を現在の地に移したとき、その古社殿を天満神社に譲りうけたものであるともいわれている。又現在境内の東北隅にある朽ちた堂は、元篠山城地にあった春日神社の最初の古社殿であるという。
 
祭禮
毎年9月9日(この日は神霊「笹山」へ遷座の日)を例祭日として賑やかな祭礼が行われてきたが、明治43年太陽暦の採用によって10月17日に変更された。祭礼の中心をなす四柱の神霊を移した金神興は、元禄7年6月、2基を黒岡村より、安永8年9月(又、元禄13年ともいう)2基を篠山町より寄進、又絢爛、豪華を誇る9台の山鉾は京都の祇園の山鉾を模したもので、寛文3年以降各町内より寄進したものである。祭礼に賑わいをそえる太鼓御興は、文化文政の頃、王地山焼の陶工が余興にかつぎだしたのが始であるという。
 
能楽殿
境内にある能楽殿は、文久元年、城主青山忠良の建立奉納になり、舞台の構造が立派なので有名である。建築は稲山嘉七、永井理兵衛、舞台背景の松の絵は松岡曾右衛門の筆であり、関西の能楽愛好家のあこがれの的として、その建築美と古典芸術の床しさをただよわせている。
 
絵馬堂
昭和27年8月、平和記念に建立されたもであるが、ここに揚げられた20有余の絵馬は、元旧拝殿の内に掲げられていたもので、そのうち、慶安2年松平忠国奉納の黒神馬は、狩野尚信の筆といわれる精巧なものである。かつてこの馬が夜になると絵から抜け出して黒岡の田畑の豆を食荒らしたという伝説があり、その後この絵馬だけには金網が張ってあった。貞享4年の作「大森彦七盛長、南朝の雄魂に悩まされる図」と共に多紀名宝の内に指定されている。
 

このページの記事は「2005年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。

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