篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「宗教(青山神社)」

祭神
篠山城址、元本丸にあり、旧藩主青山家の遠祖、青山忠俊及び青山家中興の藩主と称せられた青山忠裕を祭神とした神社である。
 
由緒
明治13年、篠山旧藩士民で青山家の旧恩を追慕景仰する者が相寄り、報徳の至情を伸べ旧誼を永遠に記念するため神社を創設するか、或は記念碑を建立するかの希望を以て旧藩士我妻助補、畑弘和の両氏が発起人となり、同年7月、篠山町士族記念講なるものを組織し、篠山の士族は悉くこれに入講した。
以来数次協議を重ねた結果、従来城中本丸にあって廃藩の際、春日神社内に移した青山家歴代の神霊を合祀した「霊神社」を再建し、青山神社と称して旧城址に社殿を建立することを決定した。ところが、この出願は許可にならず、再び書式を改めて神社創建の願を提出し、明治15年1月23日ついに許可を得た。
かくて明治15年5月鎮座式と大祭を行い、祭神として青山忠俊を祀った。忠俊は大阪夏の陣に秀忠の右軍とて戦功あり、後選ばれて将軍の世嗣家光(後の三代将軍)の幼時の輔導役として武勇硬骨を以って知られた名君であった。
その後星霜移り、社殿の風剥甚しく、且つ規模も狭かったので、大正5年4月改築したのが現在の社殿である。
しかるに、本社の祭神は、創建の際青山家歴代の神霊を合祀することを許可されなかったので、久しく忠俊一桂を祀っていたが、忠俊は単に青山家の遠祖であるというのみで当時の篠山附近とは何の縁故もなく、ただ旧藩主の祖先であるという点と、偉大なる人格に対する尊崇敬幕の情誼は変わらぬが、土地に関して、即ち直接的因縁において遺憾の点があるので、昭和5年に文化文政の頃の篠山城主で、多年幕府の老中を勤続し、郷土に善政をしいて中興の英主と仰がれた青山忠裕を新たに合祀することとなり、同時にその年の7月7日社格をすすめて郷社に列された。(昭和21年6月13日「宗教法人令」により社格消滅)
 
祭禮
例祭は、毎年4月14日、15日両日で、15日には神霊春日神社に渡御の行列があり、町内を一周するのであるが、この祭礼には、かつては武装せる鳳鳴義塾(青山忠誠の創設、後鳳鳴中学校、現篠高)生徒の前驅に続いて、昔ながらの甲胃武者、小学生の弓箭隊が多数に供奉し、太鼓とほら貝の合図に粛々として町内を練り歩いた昔を偲ぶ祭礼である。
 

このページの記事は「2005年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。

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