篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「宗教(寺院)」
篠山町には現在、浄土宗3、日蓮宗2、曹洞宗1、真宗1の7ヶ寺がある。その多くは、八上城下に在ったものを、篠山築城によって慶長年間、現在の地へ移転したものである。
眞福寺
上河原町にあり、開法山と号して浄土宗、西山派に属し篠山誓願寺の末寺である。
本尊は阿弥陀如来で、文禄2年(一書に元和9年)僧、本柳(岸空上人)の開基創建にかかる。
往古は八上郷小多田にあったが、兵火に類焼して八上下村に移り、篠山築城後、慶長15年に今の地に移したものである。
境内に享保11年3月中旬の建立という観音堂がある。又旧藩主松平紀伊守の侍女が乳の病の平癒祈願所としたという薬師堂があるが、いずれも詳しい由緒は不明である。
本経寺
上河原町、王地山の麗にあり、妙長山と号し、日蓮宗武蔵国池上本門寺の末寺として、常陸国土浦に在ったが当地へ移転について京都の日蓮宗大本山妙顯寺の末寺となった。
開基は慶長6年で、土浦の城主松平阿房守(後に伊豆守)信吉が実母の供養の為、時の高僧持明院日泉上人を聘して一宇を建立し、妙長山本経寺と号したのであるが、後に松平信吉が上野国高崎城主(2年間)を経て、元和5年篠山城主として転封の際に今の地に移したものである。
本尊仏像は慶長11年の作、この寺はかつて松平家令室菩提所であったので、今も境内に松平若狭守令室天良院殿の石碑がある。
観音寺
下河原町にあり、普門山と号し禅宗曹洞派に属し、雲部村洞光寺の末寺である。
本尊釈迦牟尼仏は定朝又は春日の作という。往古、城北村知定(今、観音寺谷という所)に観音堂があり、当時の八上城主波多野晴秀がこの観音を信仰のあまり、洞光寺の要山玄的和尚に乞い、その弟子嶺玖を請じて永禄5年正月に八上城下に移して一寺を造営したのが始めである。(今も八上に観音寺屋敷の地名あり)
後、慶長15年(或は17年ともいう)これを河原町の今の地へ移したが、寛文10年正月11日類焼して再建、正徳4年10月14日再び出火、再建、享保5年7月3日、三度出火類焼して再建したのが現在の寺院である。
境内にある観音堂の尊像は約600年前のものであり、又別の一体は東新町割場にあった観音堂から明治42年に合祀したもので約900年前のものかといわれる国宝的なものである。観音寺の隣に弁天堂があり、尊像は弘法大師の作といわれている。
尊宝寺
立町の北端、曲がり角にあり、嶺松山と号し、真宗本願寺の末寺である。永正3年、僧雪隆が波々伯部郷(今、日置村)で開基創建、はじめ尊法院と号したが、永正9年、真宗に転じて尊宝寺と改めた。
慶長4年、八上城下の藤の木に移し、篠山築城成るや、慶長15年今の地に移したが、文化4年2月、立町の大火に類焼して文化6年再建したのが現在の建物である。
表門屋根裏の彫刻唐獅子は左甚五郎、戓はその高弟の作といわれ、文化4年の大火にこの唐獅子が火を吹消してこの門だけは類焼を免れたという伝説がある。
来迎寺
立町の北端にあり、清涼山と号し、浄土宗、京都知恩院の末寺である。弘治年間、波々伯部郷に開いた不断寺を、後に僧調誉が八上城下に移して開基創建、阿弥陀寺と号したのに始まる。この時八上城主波多野秀治が納めた仏像が今もこの寺に安置させられている。篠山築城に際し、慶長15年、今の地に移して清涼山来迎寺と改称した。
その後、文化4年2月18日、立町大火のため悉く類焼し、文政2年9月、再建したのが今の堂宇である。附近の尊宝寺と共に、本堂の柱、精巧な屋根瓦の葺き方など、町内に比を見ない壮大な建築物である。
誓願寺
魚屋町の西端、曲がり角にあり、清浄山と号し、浄土宗西山派に属し、京都總本山誓願寺の直末である。
天正年間、僧天誉が波多野秀治の保護をうけ、八上城下に開基創建したのに始まる。
(今も八上に誓願寺谷の地名あり)篠山築城と同時に慶長15年今の地に移した。
本尊阿彌陀如来は、1,400年前、法道仙人の真作といわれ、畑村三嶽の南麓、福泉寺あったものである。
寺は明治19年7月19日、准檀林の格を許可され、明治34年6月4日、誓願寺、円福寺両本山の末となった。
昭和24年2月16日、宗教法人令に依り、宗教法人浄土宗深草教団を設立、昭和28年4月8日認可、その本山となり、高橋覚純が初代管長となった。
山門はこの地へ移転後、修理に際し、一部組直した形跡はあるが、殆ど全部は本堂と共に足利時代に創建されたままのもので、釘を用いず、組合せただけの貴重な建造物である。
妙福寺
下西町にあり、宝乗山と号し、日蓮宗、京都本圀寺に末寺である。
宝永7年4月(一書には文明年中)僧日助上人が摂津五百住村で施主松永某のために開基創建したもので、永録年中八上城主松永孫六がこの寺に詣でて霊験あり、日洞上人に請うてこれを八上城下に移し、篠山築城後、慶長16年に現在の地に移したものである。
以上、7ヶ寺の外に、寺院に準ずるものとして、王地山稲荷社と大悲閣がある。
王地山稲荷社
王地山公園隣接地の山上にあり、日蓮宗妙長山本経寺の管理に属する仏閣である。
尊像吨枳尼天王(右手に剣を持ち、左手に玉を捧げ、白狐に乗った稲荷大明神)は、桓武天皇の御宇、最澄上人(伝教大師)が天下奉平、五穀豊饒、万民救護を祈願して彫刻したものという。常陸国土浦城主松平信吉がその霊験に感じて彼の地に妙長山本経寺を建立した際、鎮守としてこの像を観請したもので、後、元和5年信吉が篠山城へ転封の際、日泉上人が本経寺と共に奉じ来り、王地山に地を賜って今の所に遷座し、以来王地山大明神と称えるようになった。
その後、藩主の二度の国替に際しても「永く当山に留り、衆生を救わん」との霊告があって、ついにこの地に留まり、今に至るも一般の信仰厚い社である。
社前に別に「平左衛門稲荷社」がある。藩政時代、江戸大角力の伝説で有名な王地山稲荷の眷族、王地山平左衛門を祀った社で、俗に「まけきらいの神」といい、勝利守護の神として近隣に知られている。
毎年4月16日、17日には稲荷社の春祭が全町を挙げて取り行われ、遠近の人々の参詣で賑わうのが例である。
大悲閣
王地山公園孤松台の南、一段下りた所に在り、明治32年の造営で、翌年4月入仏式を行った。本尊観世音は、恵心僧都の彫刻である。比叡山小川より出で、臨済宗本山相国寺にあったものを、同寺の荻野独園の徒弟、島津松雲がここに持ち来って安置したものである。
このページの記事は「2005年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。