民話と伝説ささやま-負け嫌い稲荷 ■河原町

篠山の王地山に祀られる稲荷社にまつわる伝説である。

文政3年と言うから今から160年前、篠山藩主青山下野守忠裕が江戸幕府老中をつとめていた当時の話である。江戸で例年催される将軍上覧の大相撲があり、下野守お抱えの力士はいつも成績が悪く、相撲のこととなると殿は不機嫌であった。

ところがある日のこと、篠山の国元より「王地山平左衛門と名乗る力士一行8人(王地山平左衛門・波賀野山源之丞・飛の山三四郎・黒田山兵衛・曽地山右近・小田中山清五郎・周知山道観・頼尊又四郎)と行司(金山源吾)並びに頭取(高城市松)の計10名」が特に殿にお目通りを願い、あまり期待されていないまま出場を許されたのである。ところが、いつもなら真っ先に負けて帰るのが篠山藩の力士であったが、あに計らんや強いこと強いこと、最初から全員勝ち名乗り、しかもその勝ち振りが段違いの強さという不思議なことが起こったのである。これを見ていた殿は至極ご満悦、早速その力士の慰労の宴を催そうとしたところ、はや力士達は国元へ帰ったという。驚いた家臣が早馬で東海道と中山道の両道を追ったが姿を見ずじまいで篠山に着き城門をくぐった。また驚いたのは城代家老、第一力士を差し向けたこともなければ、そのような力士を聞いたこともないと言う。よく調べてみると、そのしこ名は領内に散在している稲荷様の名とわかった。領主の無念を晴らしたよほど領主おもいの稲荷様であるという事になり、この話が殿に報告された。殿はさっそく、それぞれの稲荷に幟を奉納し感謝 したという。これが「負け嫌い稲荷」の起こりと伝えられている。以来、勝利の稲荷として、遠近を問わず信仰参拝者が多い。

「篠山町百年史」より

赤い鳥居が続く王地山稲荷の写真

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