民話と伝説ささやま-女人窟の行者 ■火打岩

火打岩の鍔市ダムの南の山の南面中腹に奥行き七メートルもある大岩窟があり、これを「女人窟」と呼んでいる。

話はおおよそ750年も昔のこと。この洞窟の奥で、朝夕小さな燈火をともし、一心に読経祈願を続ける白衣の女人があり、村人たちは、ただ人でないと気づき、哀れに思って毎日食べ物を届けたという。不思議に思った村人達から、この女人は承明門院(後鳥羽院の皇妃であり、土御門院の生母)であるとの噂が流れた。当時の状況は、歴史に有名な「承久の乱」(1221)という皇室側と鎌倉幕府側との間に起きた大戦があり、皇室側が敗れ、勝者鎌倉方の北条義時執権は、皇室方の責任者の後鳥羽院を隠岐の島へ配流されるにおよび、土御門院も自ら土佐へ(のちすぐに阿波へ)落ちのびた。そして、土御門院は寛喜3年(1231)、後鳥羽院は延応元年(1239)、順徳院は仁治3年(1242)と相次いでその地で崩御されたのである。承明門院は、このような戦の世の中、また身にかかる皇家の不幸を嘆き、官軍が丹波から多く出ていたという縁故を尋ね、都に近く、人目に立たないこの火打岩の岩窟に隠れ入り、一介の尼僧となって一心に祈願を続けていたのであったという。

その後承明門院は、正嘉元年(1257)87歳の高齢で亡くなったと伝えられるが、今もこの女人窟の下近くに、承明門院のお墓と伝えられる石塔があり、毎年6月村人達はねんごろにお祀りを続けている。

なお、大正5年にいたり、このお墓のことに関し地元から調査方具申書が宮内大臣宛提出され、また、昭和13年県の史跡調査委員2名が来郡し調査したことがある。

「篠山町百年史」より

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