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光照寺、宝篋印塔、足利義高の墓

光照寺、宝篋印塔、足利義高の墓

沿革等光照寺、宝篋印塔、足利義高の墓
宮田光照寺境内にある宝篋印塔は、高さ216㎝に及ぶ市内最大のもので、台石は上に複弁の反座花をつけ、4面に輪郭をとった格狭間が刻まれています。軸石は後世に灯籠化されくり抜かれ、月輪内の四仏の種子は判別できません。笠の隅飾り突起はほぼ直立し、2弧輪郭が刻まれています。相輪も立派で全体的にバランスのとれた宝篋印塔で、造立は明らかではありませんが、各部の手法からみて鎌倉時代後期を下らぬ、県内でも古いものとされています。
本来なら、将軍になったはずの「足利義高」が、宮田光照寺裏山の谷間にひっそりと眠っています。永禄8年(1565)、室町幕府十三代将軍義輝が家臣に暗殺されました。その嫡男義高(当時三歳)は、この時、京都の誓願寺に逃れ仏門に入ったとされています。
その後、波多野秀治に預けられた彼は、長じて上京し、修行を重ね、再び篠山に戻り、八上城城下に誓願寺を創建し、「覚山天誉上人」と称したといわれます。彼は晩年、宮田の浄福寺(廃寺)に隠居し、余生を送り、元和10年(1624)、この地に没したとされています。