重兵衛茶屋バス停から徒歩約7分再び昔の京街道に引き返して、少し行ったところに「八上の一里塚」がある。
一里塚とは、一里(約4キロメートル)ごとに設けられた一種の路程標である。豊臣秀吉が文禄の役(1592)の際、備中河辺と肥前名護屋の間、三十六町を一里と設けたのが初めである。
江戸時代になって、徳川秀忠が慶長9年(1604)に江戸日本橋を基点として、東海・東山・北陸三道の道路の両側に塚を築いて、榎や松などを植え、道程の目標とした。これは、一里・三十六町制を広く知らせ、その徹底を目的としたものと言われる。
このことにより各藩では、江戸、京都への里程を示す一里塚を設けるようになったのである。
篠山藩では築城とともに、京街道に沿って大手門を基点とし、一里ごとに土を盛り松を植えて標識とした。ここが最初の一里塚である。史跡を後世に伝えるために、最近、松を補植し整備した。
「丹波篠山五十三次ガイド(改定版)」(平成7年8月発行)より
※地名・交通経路等は書籍発行時のもので、現在の状況とは異なる場合がありますのでご注意ください。