城北口バス停から徒歩約8分
立町の町角から北方へ数分行くと「法昌寺」があり、その北西の東西に延びる畦道の中程に、元越後(新潟県)村上城主「村上周防守忠勝の廟所」がある。
戦国の猛将村上義清は武田信玄と勇戦し、退いて上杉謙信を頼り、信濃北東部の失地回復を図ったが果たせず、越後根地城で死んだ。
その子頼勝は、豊臣秀吉に仕え加賀(石川県)能美郡で6万6千石を与えられた。その後、春日山城主となった堀秀治とともに越後に移って、本庄9万石の城主となり、村上城と改めた。関ヶ原の合戦には在国して上杉に備え、所領は安堵され、慶長15年(1610)に亡くなった。
あとを継いだ忠勝は、殖産を奨励し、金の増産にも努めたのである。ところが、元和4年(1618)4月、家中騒動を理由に突然改易のうえ、丹波篠山へ配流になり城主松平康重に預けられることになった。林八郎右衛門ら20数人と城中の一郭で生活し、同9年9月26日、若くして流転の一生を終えた。その無念さを思い静かに合掌するのみである。
位牌は法昌寺にあり、忌日には回向を続けているという。
「丹波篠山五十三次ガイド(改定版)」(平成7年8月発行)より
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