兵庫県篠山市ホームページ 超お役所サイト丹波篠山へのいざない
 
  ホーム > 地域情報データベース > 先賢の足跡が語る > 萬尾時春(まおときはる)編

「畑治男特筆編集」

篠山市の歴史に刻まれた
先賢の足跡が語る
~萬尾時春(まおときはる)編~

 

一、萬尾時春(まおときはる)

-篠山が生んだ独学・独歩の数学者(和算)-
わが国測量技術発達史上の功績大、農事経済にも精通

(宝暦5年 1755年逝去 73才)

 時春は、萬尾治太夫親長の二男として、天和3年(1683)に篠山で生れた。
 父治太夫は、江戸で松平康信に仕官、山奉行として篠山に住んでいた。時春が10才のとき父を亡くし、母は下級武士の暮らしを支えるのに苦労をした。少年時春は、貪困な生活の中で、動機は分らないが、あまり人が選ばない 「和算家」としての道をひたすら苦学力行した。寛廷元年(1748)に篠山藩主形原松平信答が、丹波亀山城へ移封されたのに伴って、時春は篠山を去った。
 さて師につかず独学によって和算の大家となったことは、時春に数学の才能があったと思われるが、享保7年(1722)時春が40才になった年は、時春にとって重要な意義のある年であった。即ちいつくしんでくれた母を亡くしたことと、長年の研究をまとめて

「規矩分等集」 2巻
を初めて世に出した年であって、名もない田舎武士が一躍時春の存在を世に知らしめたのである。
◎「規矩分等集」 について
「規」とは円規のこと
規矩とはコンパスと定木ということ
「矩」とは曲尺のこと
「規矩術」というのは、コンパスと定木を用いて図形をつくるのである。江戸時代の中頃には、測量術のことを規矩術と呼んだ。規矩分等集の中で「四方六面曲之事」については、時春が最も苦心し、工夫した得意のことである。

・「四方六面様合曲尺」という測量器は水平と直立を正しくしたもので、水を盛って平準をとった。

・「勧農園本録」上下二巻 享保10年(1725)
農事経済に関する算法である。藩の役人、村役人、農民の心得、農家経営上の便利なものである。(土地の湿、土地の沃、検見、年貢、山林、租税)

・「井田図考」享保11年(1726)につくる中国の井田図考をくわしく説明したもの公は公田で8家共同、一里四方を井の字に区分 一区画は百畝)