ホーム > 地域情報データベース > 先賢の足跡が語る > 松崎蘭谷(まつざきらんこく)編 |
「筱山封彊志」(多紀郡の地誌)の他多くの著書がある。
江戸期早くに地誌をつくったことは、世に誇るへさことである。
(享保20年7月9日・1735・歿62才)
形原松平信庸が篠山の藩主となって間もなく、歴史と経学にくわしい者を得たいと伊藤仁斉に相談したところ、仁斉が推薦したのが蘭谷であった。
蘭谷が元禄五年(1692)9月、19才の若さで儒宮に任用された。蘭谷は常に信庸のそばを離れることなく、政務と学問の両面にわたって信庸を補佐した。蘭谷はこの頃から最も活発になり著書も多くつくられた。
蘭谷が信庸に召し抱えられ最初に15人扶持を給せられ、一気に累進して250石にまで昇ったのをみても、二人の関係がいかに密接であったかが察せられる。
晩年の蘭谷は家庭的に恵まれず、長男千之 (号は東川) が享保15年に17才で歿した。
蘭谷の著書はたくさんあるが、その中でも「筱山封彊士」は最もよく知られて利用された。江戸時代になると、泰平が続き、諸大名は領内のことについてくわしく調べる必要がおこってきた。即ち空間、広さ地理的環境等の特色を充分理解しておくことが大切であった。このような時に当って蘭谷は、江戸期早くにこの地誌を完成し特に注目された。
◎「筱山封彊志」について
この地誌の内容は
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正徳歳次丙申三月穀旦 (1716年の吉日)
右の項目についてくわしく記されている。
50,000石の丹波の藩地でこれだけの藩内の地誌がつくられことは、当時としては貴重な文献であって、天下に誇るべきことであった。今日になっても、古く多紀郡の地誌を知る上で価値の高い文献であり、郷土研究の貴重な資料であることを理解しなければならない。