青山忠誠公の偉業について-雅号は環峰-
◆学舎を創設 明治9(1876)年郷土に教育の息吹
青山家21代青山忠誠公は、篠山に人材を育てる学校がなければならないと考え、慶応義塾の創立者福澤諭吉氏にはかったところ、福澤氏は、極めて秀れたことであると賞賛、栄子である二人の教師(英語、物理化学)を篠山に送ってきた。
かねて廃藩後間もなく藩士の有志が、春日神社の境内の小桃源に子弟教育のためにつくった「共茂舎」を明治9(1876)年12月28日に「私立篠山中年学舎」と改めて、とり敢えず子弟を集めて、漢文、数学、英語の教授を開始した。忠誠公は、″旧藩領に永遠に残す置土産は、子弟を教育することである″と私財と投じて学舎を建設した。
◆教育に名言 忠誠公熱情こめて教育を振興学舎が変災に遭ったときに忠誠公は、
″学舎は焼くとも教育焼くな”
との名言の意志もとに、直ちに巨費を投じて、学舎を再建したのであった。まことに藩民に対する温情は、熱意のこもったものであった。明治11(1878)年には「公立篠山中学校」に改め、同18年廃校の危機に直面するも「私立鳳鳴義塾」と改称し18年より授業を再開、多くの人材を育てた。また東京への進学の子弟のため寄宿舎を設けて尚志館を開いた。このように忠誠公は偉大なる育才事業をなし遂げたのである。
今日郷土篠山市には、この伝統の教育精神が篠山鳳鳴・篠山産業高校に脈々として流れ、郷土は教育の市として、伝統の歴史と共に盛り上っている。
忠誠公は明治20(1887)年七月廿三日逝去(享年29才)した。明治25(1892)年11月7日正四位子爵を追贈表彰された。
◆追慕碑
篠山城本丸のこの大きな追慕碑は、昭和11(1878)年7月に、忠誠公の遺徳と、数々の功績を追慕して建立した碑である。