藩士安藤直紀・撰文並書
この碑は、篠山城跡二の丸に建てられていたが、二の丸整備復元計画により、昭和59(1984)年8月当青山会柱園舎庭園に移築したものである。廃藩に当って建立した篠山城惜別の碑である。
篠山城惜別の碑文
(表面)
丹波国篠山城は 慶長14年に築かれてより、青山の君城主にならせ給ひしは、寛延2年 御名を忠朝朝臣と申しし時なりき。此の朝臣より忠敏朝臣まで 世は6継年は121年此城にましましけるを、いたし明治2年ふるき昔にかへして、天皇み、、つから世を治め拾ふにつきて古の朝臣も東の京にまかりのぼり給ひぬ。その御別れに 世々仕へ奉りし人々を召させ給ひて、今よりはもの学びに心つくして国の光をそへよ必ずな怠りをと懇ろにいましめさとし給ひける。此旧城を学校に改めかへて童べを教えさとして才をみがき、智を開かしめ
大御代の御いつくしみにむくい奉らば 彼の朝臣の御いまお・もいこしめにもそむかじ 御志をむなしからじと思越し明治7年公にこひ申して同じ8年1月学校とはなしつ。斯くして万代までも此学校のいやさかえに栄えて童児らを学びの道にす~みぬべく守り給へと青山の代々の御霊にいのり奉りき。此のゆえよしを後の世に伝へまゐらせむとかくは記しおくになむ。
(裏面)
安藤直紀謹述
事務懸
石田伊助
明治8年2月建之
取扱人
山仙右衛門
喜多 喜 七
石 工
本多喜助
碑文の要点
最後の城主青山忠敏が、明治2(1869)年に廃藩により東京に去られるに当り、家臣たちに ”今よりは学問に心を至し、国の光をそえよ”とのおさとしに感激して藩士安藤直紀は、篠山城惜別の碑をこの丸に建立し、明治8(1875)年旧城に学校を開き、童児らが学問の道に励み、万代までの弥栄を青山の代々の霊に祈り奉り、後世に伝えんと記したものである。