古くて新しい この由緒忘れることなくいつまでも
-東京高等師範学校教授(大正14(1925)年)文部省視学委員(大正15(1926)年)道徳教育の権威者-
(昭和21(1946)年歿、74才)
明治6(1873)年3月、篠山藩士族亘理直方の三男として西新町にて出生。明治、大正から昭和16(1941)年退官まで、当時代の「国民道徳本論」を中心に著書も多く、教育界で活躍した人物である。
◆「培根達技」の碑のついて
篠山小学校の校門左に現存しているこの碑は、章三郎の父直方の揮毫によるものである。「培根連枝」の語は、中国の朱子の小学題辞にあるもので培根は、根をしっかり育てるという意達枝は、枝を丈夫に茂らせるという意であって、根は小学時代の教育のことであり、枝は中学から大学時代に相当することである。
樹木の枝は、花が咲き実の成るところで、それが完成して更に次代の力強い生命へと進展するということである。
そのためには、小学時代に根をしっかりと培っておかなければならないのである。
教育によって心と体を育て、実が成り、強健な生命となる。
古くて新しい語で、今日の教育はこれでよいのか、家庭で、学校で、社会であらためてみなおさなければならないぴったりの教訓である。
◆「デカンショ節」と章三郎の出合いについて
明治29(1896)年から32年にかけての頃、青山家は邸内に青山忠允公(13才の頃)の学問所が開設され、その教育主任を章三郎(25才の頃)が仰せつけられた。
明治31(1898)年の夏、房州千葉館山の江戸屋旅館において青山忠允公ら一行と共に水泳の合宿をした。たまたま当館に合宿していた一高の連中(水泳部長塩谷温) と共にお互いにはり合って、歌による応戦があった。一高の連中は寮歌で、丹波篠山の連中はデカンショで対抗し、若者同志のことでいつとはなしに和んできた。
この一高の連中によって全国に広まったのがデカンショ節である。この出合いがなければデカンショ節は天下に名高く生まれなかったといえる。
章三郎は
デカンショ、デカンショで一生踊るヨイヨイ
俺が死んだら子が踊るヨーイヨーイデカンショ
子が死んだら孫踊る
と替え歌を作り、いつまでも続けられるようにと郷土篠山への思いがこめられた歌詞であることを忘れることなく継承してイベントの活性化をはかりたいものである。