|
多紀郡(現篠山市)
かつては湖だった篠山盆地
今も水辺にちなんだ地名が残る
|
丹波山地に囲まれた篠山盆地は、今から約1億2000万年以前より相当長期間にわたって湖だった。それは、波の化石ともいうべき漣痕(れんこん)、巻き貝、二枚貝や植物の化石、貝エビの生存などで明らかだ。今も市内には浜谷、岩崎、網掛(あがけ)など水辺にちなんだ地名がある。
郡名は、至る所に断崖(たき=滝)があり、激流も多いことから「多紀」になったという。また、岳郡の変化という説もある。
「古事記」の孝昭天皇(第5代)の段にある「多紀臣」は多紀郡の有力氏族の一つである。また、平城京跡出土の木簡に「多貴評(たきのこおり)」「多紀郡」とあり、正倉院文書には「但波国多○郡」「丹波前国多貴郡」と見える。
旧石器時代からの生活の状態が藤岡山遺跡や板井・寺ケ谷遺跡で発見され、縄文、弥生時代の遺物も各所から豊富に出土している。
古墳時代になると各地で人々は台地から低湿地にも移って集落を営み、その結果、急激に稲作が増加した。それぞれが、首長のもとに独自の生活を持っていたことは、古墳の分布や雲部車塚古墳の偉容で分かる。
7世紀末には郡家辺りに、郡衙(ぐんが=郡の役所)が置かれていた。寛平9(897)年には、大嘗祭の主基殿(すきでん)に献上する新穀田の所在地に指定され、その後も数回卜定(ぼくてい=吉兆を占って指定)されている。
また、山陰道が通り、小野駅と長柄駅があり、大山荘(東寺領)をはじめ荘園は全郡に広がっていた。平安末期からは三岳修験道が栄え、大和の大峰山と競ったという。
戦国期には波多野氏が興隆し、中沢、波々伯部(ほうかべ)氏らを家臣にして、八上城を本拠に丹波守護代となるが、明智光秀に攻略され、近世を迎える。 |
|