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至心山宗玄寺
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不破数右衛門ゆかりのお寺
赤穂義士に扮した子供たちの行列が人気の義士祭
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JR古市駅を出て、町並みを右にしばらく行ったところに宗玄寺(そうげんじ)がある。油井城主酒井上野介秀正の子、久左衛門尉秀朝が、晩年仏門には入って誓珍と号し、慶長2(1597)年に別荘を寺院とした。その後、延宝4(1676)年、真宗大谷派に属して寺号を許されたという。
この宗玄寺に赤穂義士で有名な不破数右衛門正種(元馬廻り・浜辺奉行、100石)の碑が建っている。昭和7(1932)年9月、泉岳霊明、と刻んであるが、高輪泉岳寺の住職であろうか。
元禄14(1701)年3月14日、、播州赤穂5万国の領主浅野匠頭長矩が、遺恨のため高家筆頭の吉良上野介義央に江戸城本丸の松の廊下で斬りつけた。長矩は切腹で、浅野家は除封。家臣たちは離散することとなった。
数右衛門は、先にことにふれて浪人となり、町人の姿に身を変えて江戸に住んでいた。赤穂を離れた実父岡野治太夫は一時、播州亀山(現・姫路市)に滞在。その後、妹が当地の酒井右衛門に嫁いでいた縁で、治太夫は妻と数右衛門の子、お鶴と大五郎を連れ、古市に来てめいの結婚先の宗玄寺に身を寄せた。
主君のあだ討ちに参加を許された数右衛門は、吉良邸への討ち入りが迫ったある夜、密かに父母と子供に別れの言葉をかけようと立ち寄った。母はこのとき、自分の白無垢の下着の裾を切って、襦袢を縫い上げ、せんべつにしたという。
決行の当夜、そば屋に集合した際、その襦袢の背に大高源吾忠雄が「松樹専念遂是朽(しょうじゅせんねんもついにこれくち)、僅花一朝自為栄(きんかのいっちょうもおのずからえいをなす)」(白居易の詩・はかなさを朝開いて夕方にしぼむムクゲの花に例える)と書いたという。
大石内蔵助良雄が率いる旧赤穂藩士47人は、元禄15(1702)年12月14日夜半過ぎ、本所の吉良邸に突入し、本懐を遂げた。その後、篠山城主松平氏を通じて、数右衛門の短刀と襦袢は宗玄寺に送り返された。
同寺の門徒墓地に治太夫夫妻の墓石が建つ。
毎年、12月14日には宗玄寺を中心に義士祭が催される。その前後の日曜日に子供47士の行列があり、家族連れでにぎわう。 |
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