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足利義高の墓
世が世なら将軍様
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足利幕府は華麗な幕府であったが、一方では13代将軍義輝が家臣の三好義継、松永弾正久秀らに殺されるなどの悲劇も綴られている。その将軍の嫡男が、ここ多紀郡(篠山市)に眠っている。
永禄8(1565)年、義輝が殺害されたとき、その嫡男、義高(幼名は乙若丸)は義輝の近臣、北川六郎右衛門久寿らに助けられ、京都の誓願寺(浄土宗)に逃れて仏門にはいる。時に義高3歳であった。
同寺の教山善誉上人に育てられた後、丹波八上城の波多野秀治に身を預けられる。長じた義高は再び上京し、誓願寺で善誉上人に師事した。修行の之地、八上城の山麓に誓願時を創建して、その開祖、覚山天誉上人と称した。
慶長14(1609)年に篠山城が築かれて、八上城下の商家も寺も全て篠山の城下町に移転することになった。この寺も移され現在ある魚屋町の誓願寺となった。
天誉上人は晩年、誓願時の西約5キロにある廃寺、浄福寺(宮田)に隠居して、悠々自適の余生を送った後、元和10(1624)年1月10日世を去り、同寺跡に葬られたとされている。享年61歳であった。
その地の人たちは、篠山誓願寺の開祖であり、世が世なら将軍となったであろう覚山天誉上人の遺徳をしのんで、誰かれとなく石塔に花を手向けては線香を供え、毎年の命日には村の人たちが集まり、上人を慕って法要を営んでいるという。
宮田は私の生まれ故郷でもある。波乱の生涯を閉じた上人に一句。
もののふの 哀れをさそう足利の 嫡流ここにぞ ねむらせ給う |
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