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追手神社
“追跡”断念の神様を鎮座
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旧大山村域を通過する国道176号は新たに造られたもので、 旧道は西側に平行し、今も生活道路として利用度が高い。その北部が大山宮の集落である。大山川の最上流域で、南西に高畑山(461.8m)、北東に黒頭峰(620.6m)夏栗山(600m)各連山の支脈が迫り、大山とはこれらの山々を指すと言われる。承応2(1653)年ごろに大山上村から分村して成立。「元禄郷帳」(1688-)には「大山中ノ内、宮村」と記され、ほかの郷帳類では大山上村の一部となっている。
集落北端の十字路の手前に追手神社という珍しい名前の神社がある。境内には樹齢約800年、高さ34mのモミ(国指定の天然記念物)と夫婦イチョウとよばれる老木がそびえている。創立年代は不詳だが、ご祭神は山をつかさどる神の大山祇命であり、県下有数の林業の里にふさわしい神様をお祭りしているわけだ。
大山宮の地名は、この神社があるからという。現在も、大山上とともに氏神としており、毎年、10月8日の祭礼では大山上の氏神、味淵神社の御輿が渡御し、大山宮に先立って神事が行われる。
この追手の神様について次のような伝承がある。昔々、この地を鐘(金)を担いで急ぐ神様がいた。てっきり自分のところの鐘を取られたと思った神様がこれを追ってこられ、日が暮れたので、この辺りで仮眠された。トリが鳴く声に目を覚ますと、もうすっかり夜が明けていたので、追跡は無理と鎮座されたのが追手神社であるという。
一方、山の上で一服した神は月が出たのを喜んで、さあ出かけようと立ち上がったところ、近くにあったシイの木から実が一つぽんとはねて目にあたった。痛くて目も開けられず、片目を抑え鐘(金)は置いたまま向こう側に下り、「鐘の宮」になられた。それで、山は金山、坂を鐘ケ坂というとのことだ。なお、和泉式部に関する伝承の「別れ路の橋」は神社のすぐ近くにあり、加祢ケ坂、加祢山や加祢の清水とも共通する。 |
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