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田松川
活性願い明治に開通
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篠山川京口橋より東へ向かうと、八上小学校前から西へ2間幅の川が家の間を抜け、野中から街道沿いに宇土、弁天へと流れている。
弁天で、南は武庫川へ、北は篠山川へと、川中分水界によって分かれている。丹波盆地ならではで、見落としてはならないものである。
篠山盆地の水運による活性化を意図した豊岡県第20大区と第21大区の区長などをはじめ、資産家ら先達方の発想には敬意を払うばかりである。
水路は明治7(1874)年に開通。会社組織によって米、薪、炭、茶、マツタケなどの産物が三田を経て阪神間の流通に乗ることになった。
東は向井から篠山川の流れと水量を利用し、八上より弁天まで新川を開く。弁天より草野までは泥川の改修による水路を通り、それより武庫川に乗って三田まで、15石船が往復した。
この計画と工事の指揮にあたった県の役人田中光義と松島潜の頭文字をとって名付けられたのが、田松川である。
会社は、当初の意図に反し、現実に操業を始めると赤字経営より脱却できず、わずか4年余りで廃業、解散に追い込まれる。1 借金返済の負担過重、2
流水量確保に要する経費の増大、3 遠路による非能率、4 行政の熱意不足、5 利用頻度の低率などが主たる理由と思われる。
これは、丹波の経済開発の難しさを示すものでもある。明治の近代化による社会の発展は、非能率を切り捨てていった。水路は、この後、もっぱら灌漑用水として利用され今日にいたる。
この間に、我々は、先人の意図するものを発展させるのではなく、壊滅させてしまったのかもしれない。
二人を顕彰する方法はないのだろうか。 |
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