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源義経(その1)
平家追討の折、寺講に
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寿永三(1184)年2月4日、源義経は一千余騎を率いて京都を出発した。
二日の道のりを一日で駆け、丹波・播磨境の三草山に陣を敷く平家軍の東方、小野原(多紀郡今田町)に到着。
一息入れる間もなく夜襲をかけ、大勝利を収めた。(「吾妻鏡」「平家物語」)。
恐らく亀岡から湯ノ前、宮前、東本梅、天引峠を通ったのだろう。
これが近道で、古山陰道でもあり、まず間違いない。
だが、この間75キロ、よくも走ったものだ。
ところで、多紀郡に入った義経は、ちょうど昼ごろに泉村(多紀郡篠山町)の東風山南賀寺に到着した。
その日は、おりから南賀寺では寺講が開かれており、ほとんどの村人が集まっていた。
和尚のありがたいお話しを聞いたり、ごちそうを食べたり、おしゃべりをして休日を楽しんでいた。
そこへ源氏の大将が平家を追討に来たというので、みんな大変驚いたが、和尚や名主がとりなし、村をあげての歓迎ムードになった。
それにしても相当な軍勢のこと。
「十分なおもてなしはできませんが」と言いながら、主だった武将の面々にお講のごちそうを差し上げた。
義経はことのほか喜び、打ちとけて「あの東の山は何と言うのか」と尋ねた。
そこで和尚が「あれは『こう山』と申しております」と答えたところ、義経は「さらば(それならば)今日の寺講にわが軍勢がしばらく駒をとめたことを記念して『講山』と呼ぶようにせよ」と言ったという。
それ以来、西からは講山、東からは甲山、南からは神山、北からは剛山と呼ぶのだと伝えられるが、甲山、神山、剛山の由来については、よく分からない。
さて、義経ゆかりの剛山一帯を篠山町は自然と触れ合える「教育の森」として整備しつつある。 |
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