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源義経(その2)
鷲尾三郎との出会い
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泉村(多紀郡篠山町)の東風山南賀寺で小休止した後、土肥実平の一隊は南街道を、義経は弁慶らとともに本隊を引き連れ北街道を進んだ。
ところが、谷あいに入り思うように進めない。
弁慶は茅葺きの一軒家を見つけ、そこにいた老人に案内を頼んだ。
老人は「光栄です。私は漁師で丹波、摂津、播磨の道や地形はよく知っていますが、足腰が不自由のため残念です。だが、せがれが十分お役に立ちますので、お連れ下されば幸せでございます」と言う。
義経がその若者に尋ねると、「鷲尾良久の三男で、17歳になります」と、はきはきと気後れする様子もなく答えた。さらに、「ここは、後ろの山の形がちょうど鷲の尾に似ているゆえ、鷲尾村と言います」とも言った。
義経はそのたくましさと言動に好感を持ち、家来の一員に加えた。
そして道案内を命じて、太刀と甲冑、それに馬も与え、「鷲尾三郎義久(経春)」と名乗らせた。
三郎義久は勇躍、馬に乗り、勝手知った道を先頭きって走った。
源氏の軍勢は不来坂(多紀郡丹南町と今田町境)を一気に駈け下り、小野原村を突破。三草山で平資盛ら3千騎を撃破した後、鵯越より奇襲をかけて、一の谷に進撃し、再起を図る平家に完勝したのである。
その後も、鷲尾三郎は義経のそばを離れなかった。
そして、文治5(1189)年閏4月30日、陸中衣川館(岩手県平泉町)で藤原泰衡らに襲われ、義経とともに討ち死にした。
伝承によると、死後、義久の首は芦の矢となって故郷に舞い戻り、村人が供養を続けたという。
昨年、地元で古くから「十郎屋敷」と呼ばれているところに、義久を供養する宝筴印塔と灯ろうが移築のうえ再建された。
山あいに広がる鷲尾の里。若穂が風にそよぐ日も近い。 |
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