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峠の別れ
丹波杜氏旅だちの郡境
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国道372号篠山園部線の日置から南に走る県道篠山川西線に沿って難所古坂峠を越えて後川を通り抜け、さらに急坂を登ると西峠。
ここはむかし、丹波杜氏が見送りの家族と別れを惜しんだ郡境である。
「主を送って峠に立てば、霧で濡れたかこのたもと」
丹波の農家の男たちは、冬の農閑期になると、農外収入を求めて「百日稼ぎ」という酒造出稼ぎに出発した。
丹波から酒どころの摂津に抜ける街道は、この西峠を含めて三カ所。
中でもこの西峠は「二度びっくり」といわれるほど険しい峠を二度越えなければならない難所だった。
徒歩で伊丹、池田、西宮の酒蔵へ出掛けていた明治初期までのこと。
男たちは見送りの家族とともに、牛の背や牛にひかせた大八車に、布団や衣類などの荷を乗せて峠を登っていった。
西峠に着くと家族に別れを告げ、荷を天秤棒で肩に担いで猪名川渓谷を一気に下っていく。
主の後ろ姿が見えなくなるまで見送る妻子。
夫は蔵で連日連夜の厳しい労働に耐え、女、子供だけが残された村では妻が厳しい姑に従いながら夜なべ仕事に精を出す。
お互いに思いやる重さも一緒に背負った峠越えであったであろう。
「主は起きてか寝てか偲ぶ夜長の針仕事」 「丹波恋いしや六甲越えて 雪がチラチラ 舞ってくる」と、酒造り唄(うた)やデカンショ節にも歌われている。
明治18(1885)年には、篠山町日置の波部本次郎氏の提唱により拡幅の大工事を行い、峠まで二間道路が開けた。
冬は雪で何度も運休したが、ボンネット型の定期バスも運行した。
水の流れに傷んだ道だったが、私も二度ほど旧道を通ったことがある。
一回目は、猪名川町からの荷を迎えに牛を追って、二度目は、大阪万博を見学に自家用車で。
現在は旧道沿いにかつての面影もない、立派な二車線道路が通っている。
両側は茶畑、栗林、植林地、その頂上は雑木林が広がり、昼なお薄暗い所もあるが、四季折々の景観も、また素晴らしい。 |
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