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ささやまの歴史を訪ねて あわれ又四郎慙死の顛末●形原松平家についてご存じですか?篠山の語り部より(原文 梶村文弥)
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■形原松平・光忠寺・松平又四郎形原(かたのはら)松平氏(丹波亀山)は、三河以来の家門大名である。三河以来の松平氏とは、第1祖の親氏が加茂郡松平郷の土豪、松平太郎左衛門の養子となってのち8代、松平氏を相継し9代家康に至って徳川氏と称するようになったのである。 ところで、形原松平氏は第3祖信光の5男与副(ともすけ、あるいは与嗣)を祖とし、三河宝飯郡形原で750貫の領主であった。子家信のとき上総市原郡五井5千石、1619(元和5)年に摂津高槻2万石、35(寛永12)年に下総佐倉4万石。その子康信襲封のとき弟に分封して3万6千石、40年に高槻3万6千石に移り、49(慶安2)年に丹波篠山5万石として入封、4世相承して信岑のとき1748(寛延元)年に青山忠朝とのお国替えにより、丹波亀山に転封になった。相承すること8世124年間、信正に至って廃藩置県となったわけである。 (写真は又四郎稲荷) 与副―貞副―親忠―家広―家忠―家信―康信―典信―信利―信庸(信慈)―信岑―信直―信道―信彰―信志―信豪―信義―信正 ●光忠寺浄土宗鎮西派に属し、亀山城主形原松平氏歴代の菩提所である。光忠寺は元篠山の飛の山山麓の現在蟠龍庵の地にあったもので、康信(別峰と号した)が篠山在封中に建立した。彼は、1682(天和2)年に83才で、お下屋敷(一説には江戸屋敷)にて大往生を遂げ「大安院殿前四品若州太守徳誉道悟別峰大居士」の法名で、自ら営んだ同寺に葬られた。その後、信峯のとき亀山に転封になり移転された。当時はもちろん、墓石や台石それいっさいの付属設備なども同時に移したのである。寺そのものは、亀山城が築城されたころからあったといわれ、出城の役目としての防衛上の拠点であったと考えられる。 なお、形原松平氏発生の地愛知県蒲郡市西浦町には、同じく光忠寺があって、家祖の位牌がまつられている。 松平又四郎●又四郎の出生について形原松平康信は、1649(慶安2)年7月4日篠山藩4代目の城主として、摂津高山城より入封したのである。その康信の弟、松平信昌は、紀伊大納言頼宣卿の家臣として仕えた。その子として生まれたのが又四郎である。
●又四郎の惨死について康信の甥の松平又四郎は、藩主松平家を笠に着て、飲酒、遊蕩、殺傷と奔放無頼をきわめ、その上力も強かったので、家中一同からは恐れられ、康信もこの厄介者あつかいの若者には手を焼いていた。やむをえず、康信は、又四郎を打ち果たそうと決意し、1659(万治2)年10月の某日、波々伯部神社の祭礼に藩主の名代として参拝を命じた。又四郎は駕籠(かご)に乗り、家臣10数人が供行列をして進んでいった。一方主命をおびた数名の手足れ(てだれ)の家中が、上宿付近でひそかに一行を待ち伏せていたのである。それとは知らぬ又四郎は意気揚々と練ってきた。機をうかがっていた刺客たちは、突然物陰から躍り出て、駕籠に駆け寄り外から突き刺した。又四郎は思いもかけない一撃に、置いた愛刀もとることができず、さすがの強豪無頼の男も、あたり一面に血しぶきをたて、無念の声を残してたおれていったという。 ●阿弥陀寺と血寄地蔵について又四郎の遺体は、篠山町八上上の「阿弥陀寺」に手厚く葬られ、康信は、永代の供養田を同寺に寄進して甥の冥福を祈った。同寺に祀られている位牌には、(表)松平氏成等院正庵覚道大居士 万治2年10月21日 (裏)篠山大守松平別峰大居士之甥松平又四郎殿 とある。 また、同寺の東山(通称、丸山)に又四郎の供養碑が、祠の中に小さな霊碑とともに安置されている。 又四郎の霊碑や位牌が、なぜ阿弥陀寺にあるのかわからないが、又四郎の生前に縁故があったのか、あるいは、形原松平家の菩提寺である光忠寺が、浄土宗のため、康信が同じ浄土宗の阿弥陀寺に供養を依頼したものと考えられる。 後に、その死を哀れんだ村人たちが、又四郎暗殺現場の路地を清め、道端に地蔵尊を安置し供養したものが、現在の六本柳の東にある「血寄地蔵」である。 ●光忠寺と又四郎について今、亀岡の光忠寺を訪れると、墓所に入ってすぐの右側の一隅に、小さな地蔵尊が北向きに祀られている。その台石に「成等院、為菩提、文化6己己年4月日」と刻まれていることから、「血寄地蔵の分体」ということがわかる。そして、又四郎暗殺後150年たって建立されたもので、あらためて盛大な供養が行われたものと思われる。この地蔵尊にお参りすると、かつての領地の人々によって、末永く供養が行われている「血寄地蔵」の分体を、直系の墓碑が立ち並ぶ光忠寺に供養のために祀らなければならなかった、本家の形原松平家の苦衷とその影響の大きさが伝わってくる思いとともに、その霊に対しいろんな思いを込めて合掌する次第である。 |