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ささやまの歴史を訪ねて●中山正二の篠山城ものたがり篠山の語り部より(原文 中山正二)
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天守台から城下町を見る桜1000本咲いたよ咲いた 濠に古城の影ゆれてデカンショ節で知られた丹波の町、篠山の中央に仰がれる篠山城は、別名を「桐ヶ城」とも呼ばれています。櫓も城門も今はない城ですが、壮麗な二条城の遠待の間を模したという大書院のあった所から、朝露を踏みわけて天守台に立つと四面山に囲まれた篠山の城下町が一目に見下ろされ、戦国の末期、丹波一円を支配していた波多野秀治の拠城―八上城跡―が、丹波富士の姿美しく、間近に望まれます。 天正年間、織田信長の丹波攻略戦の主将明智光秀の大軍に包囲されて抗戦1年半、ついに落城の悲劇に血ぬられ、人質になった光秀の母が磔殺されたというハリツケの松や血洗池、朝路池などの伝説に彩られた山! 何と美しい山 何と美しい城だろうと思った…… と、作家井上靖氏が、小説「戦国無頼」に書いているその山です。 その八上城と、この篠山城とどんなつながりがあるのでしょうか。 山城から平山城へ八上城の落城から20余年、関ヶ原の一戦で、天下の覇権を握った徳川家康が、幕府勢力の最西端地で、西国大名に対する抑えと、大阪城に対する軍事拠点として目を付けたのが、京都、大阪に近く、山陽山陰両道を扼するこの付近でした。そのため、家康の実子であり、剛毅果断で知られた常陸国笠間城主松平周防守康重をはるばる丹波の八上城に移封し、城地を選ばせて八上城を廃し、新たに築いたのが、この篠山城であります。 そうした中世から近世への歴史の流れが、ここに立つと一望の内に見られます。 天下普請時は慶長14(1609)年、豊臣家恩顧の大名たちの莫大な財力を消耗せしめるため家康は、この篠山城を築くのに、丹波以西、山陰・山陽・四国・紀伊15カ国、20候の外様大名扶役を命じました。自分の一門とはいいながら、山間僻地のわずか5万石の1小藩大名の居城を築くのに、こうした大がかりな天下普請によったことは全く異例で、これが篠山城の見どころの1つです。 扶役8万人の血と汗 “笹山”という小丘を利用した平山城の普請がはじまったのはその年の春3月9日。 そして、あの雄大な本丸の高石垣が、僅かに6ヶ月ででき上がったという大突貫工事でありました。 この間、普請総奉行の姫路城主池田輝政をはじめ、 安芸の福島正則 長門の毛利秀修 紀伊の浅野幸長 土佐の山内康豊 以下助役諸大名が送り込んできた役夫の数は、少なくとも1万数千人か、伝説的記録によると8万人といいます。 今も石垣の各所に無数に見られる紋様の刻印は、この築城にたずさわった名もない石工たちのたくましいノミのあとで、当時の天下普請の様相を物語る声なき悲願とでもいいますか。 それにしても、この短期間に、この驚くべき大工事を完成したことは、家康の絶大な権力と、穴太(あのう)の石工の優秀な技術と工事関係者の精励さを物語るものであります。 家康が、篠山の築城をこのように急いだのは、大阪方に対する情勢の緊迫と共に、徳川義直の居城、名古屋の築城が11月から始まるからでありました。 その扶役に、篠山城の助役大名中の有力者を再び廻そうという魂胆があったためで、池田、福島、浅野、加藤、八須賀、毛利、山内、生駒の8候が引き続いて名古屋城の扶役を命ぜられています。 ●藤堂高虎得意の縄張 篠山城の縄張りは、当時名にし負う藤堂高虎の下、百戦れんまの渡辺勘兵衛が当たったもので、小丘を巧にとり入れた本丸の石垣を、内濠と外濠がとり囲んでいる構えが上空から見ると箱庭のように美しい。 伊予の今治城もそうでありますが、藤堂高虎が得意とした方形の縄張りで輪郭式と梯郭式を併用した、他に類例の少ない近世城郭の、こうした遺構が貴重なものとされ、国の史跡に指定されています。 広大な外濠次は、城郭の規模に比較して、外濠が非常に広いということであります。巾43メートル、方400メートルの濠が、満々と水を湛え、グルッと城郭を取りまいているところは、ちょっと他では見られない雄大さです。 築城以来、干たことがないといわれた西濠の深淵にはヌシが棲んでいると伝えられたものですが、今は灌漑、養魚に利用されて、一向にそれらしいものも現れません。 春ともなれば、外濠周辺一帯の見事な桜並木は県下屈指の名どころとなっています。 日本一の「馬出」今一つは、枡形の馬出を併用していることが、この城の特徴であります。二の丸の正門をはいった所の枡形は、屈折した変形二重枡形であり、城郭の南の虎口を囲む「馬出」の構え(馬出とは城門の外を防衛するために設けられた一区画です)は、東西100メートルの凹字型の土塁と濠が、今も原形のまま残っており、これこそ“現存している日本唯一の土塁馬出である”と、日本築城史の権威、石割平造氏から折紙をつけられた遺構であります。 伝説の大井戸と玉水二の丸に鉄骨の蓋におおわれた大井戸があります。上部の直径2メートル。覗いて見ると、底程広く見え、縄をおろすと、深さ14メートル、水深約8メートル。 この井戸は、岩盤を掘り抜くのに2年かかったという本丸の井戸とは反対に、上から掘ったものではなく、下から積み上げた井戸であります。 というのは、築城の際、ここは黒岡川の水先が岩盤に突き当たって淵になっていた所で、片側はその岩盤を利用し、片側だけ石を積んで井戸としたもので、口碑によると、底では13段梯子を振り廻せる広さがあるといわれていますから、底の直径はまず4メートル位でしょうか。水量は豊富です。 それもそのはず、この井戸をつくったとき、黒岡川は埋められ、川底に竹束を入れて、その上を整地したので、この隠れた川が水筋になっているのだといわれています。 水筋にあたる城の北、約2キロの田の中に、玉水と称するどんな旱年にも干したことのない水溜まりがありますが、これは城中の水量観測のために掘られたものといわれ、今も老松の陰にふしぎに涸れることなく、城の水の安全を保証しています。 ●人柱は?人柱ということは、築城の伝説にはよくあることです。1人の名石工が一夜のうちに姿を消してしまった。同輩のねたみから人柱にされたものだ。 ここが、その石工が積んだ石垣だ。と、もっともらしい伝説が篠山城にもありますが、全くの架空の作り話です。 なる程。枡形の一部に、石の積み方の違っている所がありますが、おそらく後世に修築した所でしょう。 抜け穴ですか?そんなものもこの城にはありません。 ●大書院炎上ともあれ、徳川の泰平300年、幸いに戦火を蒙ることなく、松平3家8代と青山家6代、6万石の居城として、重きをなし、壮麗を誇っていた篠山城でしたのに、明治の変革によって建造物の大部分は取り払われ、その上、只1つ残されていた豪壮な殿館大書院が、1944年1月16日の夜、失火による猛炎に包まれて、一瞬に焼け落ちてしまいました。天正7年、八上落城から365年目でした。 ●今も残る武家屋敷二の丸の裏門からおりて南の馬出の方へ出ると、右手に濠を隔てて、入母屋造のカヤ葺きで、武者窓をつけた白壁の長屋門が見えます。町の文化財になっている旧武家屋敷の遺構であります。 こうした長屋門と、その奥に母屋を持つ武家屋敷が、昔は城内一帯と、外濠の周辺に並んでいましたが、今はほとんど姿を変えてしまいました。 ただ、お徒士(かち)町と称する通り(西新町の一部)へ入ると、土塀の中に、大きな入母屋造、カヤ葺きの、どれも似たような家の構えが道の両側に集団的に残っていて、江戸時代のような雰囲気に、昔のままの生活が今も続いているような錯覚をおこすことがありますし、南濠端武家屋敷裏の竹藪と黒岡川の南、昔、新町と称したところを歩くと所々に小さいカヤ葺きで、昔の足軽屋敷の名残が見られます。 ●曲がりくねった城下町城下へはいる道はわざと屈折させ、京都から山陰へ通じる街道も見通しを防ぐため、何回も屈折させて城下を貫通し、その街道に沿って、旧八上城下の寺院と町家を配置した形態が今もそのままに残り、間口の狭い、奥行きの長い妻入住宅の商店が、あちらこちらに見受けられます。●いこいの場 篠山城跡こうしたたたずまいの中で、370年を経て崩れていた石垣を、築城当時の技法で復元した外は、いたずらに現代的な施設を加えず、昔の姿そのままの、苔むす巨大な石垣を中心に、青葉と水に包まれた城跡のみやびやかな雰囲気こそ、城下町「篠山」の象徴であり、個性であり、近代化していく美しい田園文化都市の中核として、篠山を訪れる人々の、はたまた、ふるさとを愛する郷土人の心のいこいの場であります。 |