篠山城の石垣も慶長14年(1609)の築城以来百年余り経過したころ
からあちこちで傷みが目立ち始めそのつど篠山藩は幕府へ石垣修復の願い書絵図を提出しました。 これが今日残されている絵図の控え最も古いものが亨保3年(1718)篠山歴史美術館蔵──西尾昭氏寄贈── のもので八代藩主松平信岑時代に作成されたものです。 これによると三の丸米蔵の南西角濠の石垣が崩れたというものでその修復の伺い絵図です。 そのほかにも亨保六年の絵図をはじめ数点がよく知られています。 このように石垣が崩れるたび藩は幕府へ石垣修復の願いを出し許可を受けて修理することが江戸時代を通じて行われました。また最近発見された記録に江戸時代後期に発生した伊賀上野大地震によっても石垣が崩れたことが藩の公式記録に書かれています。 篠山城の石垣は修理と清掃によって美しく保たれてきましたがこれには篠山藩領民の大きな力があったことは言うまでもありません。 明治6年(1873) 城郭取払令 によって大書院を除く建物はことごとく取り壊されましたが城の基礎である石垣は往時のままを伝え外濠馬出が完全に残っているところから1956年3月国の史跡に指定されました。 築城から350年余り風雪に耐えた石垣もあちこちで傷みがひどく昭和41年から国の補助を受け石垣保存修理事業に着手。以来今日まで継続的に進められ現在本丸天守台を残すのみとなりこれが完成すると築城当時の姿によみがえります。 |