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築城の名手百々越前

篠山城の築城は西国20藩の諸大名に賦役を命じて行われた天下普請の大工事で延8万人の人たちが動員されたといわれています。
20藩諸大名の一人土佐藩主山内一豊もこの築城の助役に携わり家老百々越前をはじめとして2000名を篠山城築城に派遣しました。
百々越前は名前を安行といい山内一豊の命で高知城築城の総奉行となり緊密な設計のもとに工事を行い自らも鍬を取り築城に従事したといわれています。
しかし慶長14年(1609)篠山城の築城が始まると高知城完成を半ばにして篠山に派遣されましたが篠山での心労が加わり発病してしまいました。
篠山の地では十分な加療もできないところから京都に送られ静養すること になりましたが病状思わしくなく死亡したと伝えられています。
高知城の西に越前町という地名が今も残っており百々越前屋敷跡の標柱があり案内板に慶長14年篠山城築城 と説明書には篠山城築城に参加したことが紹介されています。
また高知城の南筆山公園の麓には百々一族の墓地があり初代越前の墓碑がひっそりと立っています。
篠山城築城には多くの人々が動員されましたがこの越前をはじめ多くの人たちが異境の地において郷里に思いを馳せながら志し半ばで倒れたことを忘れてはならないでしょう。