城の門は多種多様の形式からなり、複雑に組み合わされ頑丈に造られていました。 篠山城を表から入る場合は大手馬出(現交響ホール西側付近)から追手門(現城跡北グラウンド西側トイレ西北付近)を通って、三の丸の桝形に入り、二つ棟門を通過して、北廊下門に取り着くようになっていました。 篠山城の南北廊下門は、櫓門の一種で渡櫓形式、多聞櫓形式、二重(楼門)形式のタイプの内、多聞櫓形式に属するもので、高知城の本丸廊下門と類似しています。 ただ違いは、高知城の本丸廊下門は二重構造となり、その下に詰門と呼ばれる門があるのに対し、篠山城は南も北も三の丸から二の丸の間にある内濠にかかった緩い勾配の土橋の上に建てられた細長い建物でした。 そして、その建物は、南北とも渡櫓形式の櫓門へと続き、南は一つの枡形を経て埋門から二の丸へ、北は二つ枡形を経て鉄門から二の丸へ上がることができました。 篠山城全体の復元イラストを見るとき、大阪城や姫路城のように広大な城ではありませんが、馬出、外濠、内濠が実にうまく配置され、三の丸、二の丸の土塁、石垣の上には塀や櫓が建ち、美しい城であったことがよくわかります。 しかし、私たちはこの美しい城が長く、篠山領民の力によって支えられてきたことを忘れてはならないでしょう。 監修 大書院復元室 |