城という字は「土をもって成る」と書き、堀を掘り、塁(土居や石垣)を築くという意味だと言われています。 この塁の内、土居は堀を掘った土を盛り上げて築いたもので、その工法は粘土質の土に礫などを混ぜてつき固めたものをたたき土居、雨水などによる崩壊を防ぐために芝を植えた芝土居があります。 土居の規模は標準として、底幅八間(一四、四米)、上部三間(五、四米)、高さ三間(五、四米)とし、勾配四五度となっていました。 篠山城三の丸の土塁は、土居の濠に接する水際を石垣として、その上に高く土を盛り上げ、さらにその上には塀を連ねて曲輪をとり囲み、四隅には二層、三層の隅櫓を設けていました。 このように石垣の上に土居を築いたものを腰巻石垣ともいわれています。 塀には狭間と呼ばれる射撃用の窓を開け、所々に屏風折の屈折を設けて側面射撃に用いました。 三の丸の土塁と塀は、篠山城の見所の一つですが、明治から大正にほとんどが取り払われ、現在は篠山中学校の相撲場の西側にその面影を残すのみとなりました。近世城郭では、西日本の城は石垣で築かれ、東日本の城は主に土居で構えたものが多く、これは気候や地域性のちがいによるものといわれています。 監修 大書院復元室 |